徳川 慶昌(とくがわ よしまさ)は、江戸時代後期の武士御三卿一橋家の6代当主[1]。異母兄には第13代将軍となる徳川家定がいる。

 
徳川 慶昌
時代 江戸時代後期
生誕 文政8年3月14日1825年5月1日
死没 天保9年5月14日1838年7月5日
改名 松平初之丞、徳川初之丞、慶昌
戒名 英徳院殿
墓所 東叡山寛永寺・凌雲院
多宝塔真浄院福島市
官位 従三位左近衛権中将刑部卿
参議
幕府 江戸幕府
氏族 徳川氏徳川将軍家一橋徳川家
父母 父:徳川家慶、母:押田氏(清涼院
養父:徳川斉位
兄弟 家定慶昌暉姫 他多数
特記
事項
徳川慶壽が跡を継いだ
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生涯

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文政8年(1825年)3月14日、第12代将軍徳川家慶の五男として江戸城西ノ丸で生まれる[2][1]。母は側室・押田氏(清涼院[2]幼名は初之丞[1]。松平初之丞と称する[2]

文政11年(1828年)12月26日、疱瘡にかかる[2]。同12年(1829年)1月7日、「御酒湯」とあり、回復した模様[2][3]

天保3年(1832年)、祖父である第11代将軍・家斉の正室・広大院市田義宜(広大院の甥で薩摩藩家老)を通じて藩主・島津斉興(広大院にとって義宜と同じく甥にあたる)に、嫡子・斉彬の養子に初之丞を入れるよう持ちかけたことがあった。しかし義宜と斉興が広大院に対し断りを入れたため、これは実現しなかった。

天保8年(1837年)5月4日、一橋家当主・徳川斉位養子となる[4]。同年5月7日、斉位が死去[1]。同年6月6日、当主に就き、徳川初之丞と称する[1][4]。同年8月19日に元服し、父・家慶から偏諱を受けて慶昌と名乗り、従三位左近衛権中将刑部卿に叙された[4][1]

天保9年(1838年)5月14日、死去[4]。14歳[1]法名は英徳院殿[2][1]。墓所は東叡山寛永寺・凌雲院[4]弘化元年(1844年)5月4日、参議追贈された[1]

天保9年(1838年)5月25日、田安家当主徳川斉匡の五男・慶壽が跡を継いだ[1]

墓所

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1967年(昭和42年)8月、東京都の区画整理に伴い、寛永寺境内にあった慶昌の多宝塔福島市真浄院に移築された(『福島民報』)[5]

脚注

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参考文献

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  • 「徳川幕府家譜」『徳川諸家系譜』 第一、続群書類従完成会、1970年7月30日。NDLJP:12211158 (要登録)
  • 『徳川諸家系譜』 第三、続群書類従完成会、1979年3月25日。NDLJP:12207381 (要登録)
  • 福島市史編纂委員会 編『福島市史資料叢書』 第69輯 新聞資料集成《昭和の福島 ⅩⅥ》、福島市教育委員会、1997年2月28日。NDLJP:9572242 (要登録)