徳島ラジオ商殺し事件

1953年に日本の徳島県徳島市で発生した強盗殺人事件
徳島事件から転送)

徳島ラジオ商殺し事件(とくしまラジオしょうごろしじけん)とは、1953年徳島県徳島市で発生した強盗殺人事件

徳島ラジオ商殺し事件
場所 日本の旗 日本徳島県徳島市
標的 ラジオ商店主と内縁の妻
日付 1953年(昭和28年)11月5日
早朝 (JST)
概要 徳島県徳島市で発生した強盗殺人事件、および冤罪事件
原因

冤罪

  • 証言の誘導尋問による導出
  • 捜査機関の杜撰な捜査
死亡者 ラジオ商店主
負傷者 冨士茂子
被害者 冤罪:冨士茂子
犯人 不明
容疑 3名:逮捕者2名、自白者1名、全員不起訴
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犯人とされた冨士茂子に対し、の確定および死後に再審によって無罪が言い渡された冤罪事件である。日本弁護士連合会が支援していた。日本初の死後再審が行われ、死後に無罪判例によって名誉回復がなされた。

事件の概要

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1953年11月5日の早朝、当時50歳のラジオ商(現在でいう電器店)「三枝電気店」の店主男性が徳島県徳島市の自宅店内で殺され、彼の内縁の妻だった当時43歳の冨士茂子も負傷した。当初徳島市警察(当時)は市内の暴力団関係者2人を強盗殺人容疑で逮捕し、内1人は犯行を自供したが、証拠が無く不起訴処分とした。

事件から8か月後、検察はラジオ商の住み込み店員の当時17歳と16歳の少年2人を別件逮捕し、1人は45日間、もう1人は28日間に渡って身柄を拘束して取り調べ、そこで得た証言(偽証)から、冨士の犯行(狂言)であると断定し、1954年8月13日に逮捕した。

冤罪の訴え

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一審判決言渡しの日、裁判所へ向かう冨士茂子
 
1964年11月30日、池田みち子市川房枝大原富枝神近市子北林谷栄小夜福子瀬戸内晴美奈良岡朋子[注 1]三宅艶子由起しげ子ら10人は冨士茂子の無実をはらすため、「徳島事件の公正裁判を要請するアピール」を行った。また同日、仮出所の嘆願書を提出した。写真は左から、三宅、奈良岡、大原、神近、市川、瀬戸内[2]

第一審・徳島地方裁判所1956年4月18日、冨士に懲役13年の有罪判決を言い渡し、控訴審・高松高等裁判所1957年12月21日に冨士の控訴棄却する判決を言い渡した。冨士は上告したが、裁判費用が続かないため1958年5月10日に上告を取り下げ、懲役13年の判決が確定した。

その直後に「冨士に証拠隠滅を依頼された」店員が「検事に強要されて偽証した」と告白し、真犯人を名乗る人物が静岡県沼津警察署に出頭したが、後に不起訴処分となる。冨士は、模範囚として服役しながら再審請求を始めた(第1〜3次再審請求)。

婦人公論』編集長の三枝佐枝子は、冨士と同じく徳島出身で、かつ同じ徳島県立徳島高等女学校出身の瀬戸内晴美に事件の取材を依頼。同誌1960年2月号に瀬戸内のルポルタージュ「恐怖の判決」が掲載される[3][4]

1966年11月30日仮出獄。姉弟や市民団体の支援のもと再審請求を続けた。1970年の再審請求では、有罪の決め手となった2人の店員が「富士さんが犯人だと言ったのはウソだった」と語るテレビ放送のテープが新証拠として提出されたが[5]認められなかった。再審請求は続けられたが第5次再審請求中の1979年11月15日、冨士は腎臓がんのため、69歳で死去した。

その後、冨士の遺志は姉弟が受け継ぎ再審請求がなされた。第5次再審請求は(姉妹弟への請求者継承にともない、名称は「第6次再審請求」)、1980年12月13日に徳島地裁が再審開始を決定。1985年7月9日に徳島地裁は無罪判決を出した。このときの代理人は林伸豪であった。

無罪の理由は

  • 有罪の決め手となった店員の証言は誘導尋問によって導き出された疑いが強い。
  • 冨士に男性を殺害すべき動機もない。
  • 外部からの侵入者による犯行をうかがわせる証拠が多い。

というもので、捜査機関のずさんな捜査が糾弾された。

1985年12月12日、徳島地裁は冨士の娘に対して、逮捕された1954年8月13日から仮出所した1966年11月30日までの4493日間に7200円を掛けた額である3235万円の刑事補償を支払うことを決定した。

ずさんな捜査

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1954年6月徳島地検は2人を犯人として逮捕したが1人はヒロポン中毒で証言ができず、1人は断固として犯行を認めなかった。そのため起訴できず、停滞する警察の捜査に変わって徳島地検が直接捜査を指揮することになり、「強気の田辺」の異名をとる田辺光夫検事正が責任者となり「無能な警察」にかわって犯人逮捕を目標に掲げた。その結果何ら客観的証拠もないままわずか1ヶ月で「いつまでも内縁の妻の地位であることに不満を抱いた冨士が殺害を決意した」「もみ合いの末自らも傷を負いながら殺害した」と冨士が犯人とされた。

また店員の1人を45日間、もう1人を27日間勾留し店員たちに冨士の犯行を裏付けさせた。2人は「強要されたもので、偽証だった」と後に主張したものの、認められず店員のうち1人はこれを苦に睡眠薬で自殺未遂をおこしている。

さらに裁判において娘・佳子が泥棒を見たと外部犯であることを訴えたが『年令10歳小学4年生の少女である。智力も判断力も劣るのみならず本件のごとき早暁のしかも暗中の突発的事件にあっては見聞の確実ならざることは当然である』と一審の津田裁判長は証言を退け判決に考慮されなかった。

再審請求の段になって検察はそれまで法廷に出されなかった不提出記録22冊を提示したが、その中には布団の上にのこる靴跡の写真が数枚あり外部犯行の可能性を示唆していた。

映像化

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1965年、開高健の小説『片隅の迷路』を原作とする映画『証人の椅子』が公開される。監督は山本薩夫

1980年早坂暁によって『暁は寒かった―(前編)母が誰かを殺した日、(後編)誰かが母を殺した日―』という題で、NHK土曜ドラマにて放送されている。冨士茂子を渡辺美佐子が、娘を桃井かおりが演じた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 奈良岡朋子は1965年公開の映画『証人の椅子』で冨士茂子をモデルとする葛西洋子の役を演じた[1]

出典

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  1. ^ 証人の椅子 - KINENOTE
  2. ^ 『月刊婦人展望』1965年1月号、財団法人婦選会館出版部、2頁。
  3. ^ 102歳で没した日本初の商業誌の女性編集長と、その仕事。瀬戸内寂聴の事件ルポ「恐怖の判決」、佐藤愛子「再婚自由化時代」”. 婦人公論.jp (2023年5月11日). 2025年1月25日閲覧。
  4. ^ 冨士茂子遺歌集「埋み火」/無実訴え続けた魂の叫び 徳島この一冊”. 徳島新聞 (2023年4月19日). 2025年1月25日閲覧。
  5. ^ 「録音テープ中心に最新の事前審理 徳島のラジオ商殺し」『朝日新聞』昭和45年(1970年)3月1日朝刊、12版、15面

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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