徳丹城
徳丹城(とくたんじょう/とくたんのき)は、現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田にあった日本の古代城柵。1969年(昭和44年)8月5日に国の史跡に指定されている[1]。
徳丹城 (岩手県) | |
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城郭構造 | 古代城柵 |
築城主 | 大和朝廷 |
築城年 | 弘仁2年(811年) |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 政庁跡など |
指定文化財 | 国の史跡「徳丹城跡」 |
位置 | 北緯39度36分28.1秒 東経141度10分20.8秒 / 北緯39.607806度 東経141.172444度座標: 北緯39度36分28.1秒 東経141度10分20.8秒 / 北緯39.607806度 東経141.172444度 |
地図 |
概要
編集「徳丹城」は、もともとあった志波城(盛岡市)を、水害を理由に弘仁2年(811年)、文室綿麻呂の建議により、翌弘仁3年(812年)の3月頃約10キロメートル南方に移転・造営したものである。
沖積平野の微高地(低台地)に立地し、約350メートル四方の規模である。材木列で周囲を囲み、70メートル - 80メートルの間隔で櫓を建てていた。内部には官衙建物群があり、志波城の政治機能を引き継いだものと考えられる。
しかし志波城と比べて城郭の規模は縮小されており、築地も北側にしかない。さらに弘仁6年(815年)には配置されていた鎮兵500人が廃止され、正規軍が配置されなくなる。しかし徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられている。
志波城の移転・徳丹城の造営・徳丹城の廃止の一連の流れは、この時期の律令国家の強硬政策の転換として、熊谷公男や鈴木拓也らが取り上げている。
2006年(平成18年)7月31日に徳丹城跡内の発掘調査により、井戸跡で国内初となる木製の冑(兜)が発見された[2]。古代の史料には木製冑の存在が記されており、その数も非常に多いと推定されていたものの、木材は腐食しやすく出土した例が無かった。この冑が出土した井戸は、9世紀(平安時代前半)に掘削・使用されたものだったが、冑そのものは、放射性炭素年代測定の結果、7世紀(古墳時代末〜飛鳥時代)に製作されたものと判明した[3]。
また、1971年頃に徳田小学校旧校舎を取り壊した際、建築廃材(コンクリート片)がそのまま徳丹城跡に埋められ、史跡が385平方メートル(2007年7月26日現在判明分)に渡って損傷していたことも明らかになった。
敷地内に、矢巾町歴史民俗資料館、南部曲り家を併設し、史跡公園として現在整備が進められている。
名称
編集城名は、元来「トクタン」ではなく「トコタン」と呼ばれていたが、後に「徳丹」の漢字が当てられることによって「トクタン」として定着したと見られる。史跡の所在地である「徳田」も、この「徳丹」と同義であろう。 「トコタン」の語はアイヌ語に由来すると言う説があり、アイヌ語では「元の村」、「滅んだ村」の意味になるが、安易にアイヌ語に由来を求めて解釈することには賛否ある。
脚注
編集参考文献
編集- 西野, 修「徳丹城跡出土の木製胄・第65次発堀調査成果から」『日本考古学』第14-24号、日本考古学協会、2007年、135-144頁、ISSN 18837026。
- 池野恋漫画・挿絵 矢巾町歴史民俗資料館シナリオ・解説・編集・監修 『徳丹城造営千二百年記念図録 漫画で知る徳丹城の歴史 徳丹城の冒険 僕別将に会ったよ』 矢巾市教育委員会、2013年3月31日