御野村 (岡山県)
日本の岡山県御津郡にあった村
御野村(みのそん)は、岡山県御津郡にあった村。1900年3月31日までは御野郡に属していた。
みのそん 御野村 | |
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廃止日 | 1921年3月1日 |
廃止理由 |
編入合併 石井村、伊島村、鹿田村、御野村(北方・三野)→ 岡山市 御野村(宿) → 牧石村 |
現在の自治体 | 岡山市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陽地方) |
都道府県 | 岡山県 |
郡 | 御津郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
2,691人 (国勢調査、1920年) |
隣接自治体 | 宇野村、牧石村、横井村、伊島村、岡山市 |
御野村役場 | |
所在地 |
岡山県御津郡御野村大字北方 |
座標 | 北緯34度41分18秒 東経133度55分55秒 / 北緯34.68825度 東経133.93186度座標: 北緯34度41分18秒 東経133度55分55秒 / 北緯34.68825度 東経133.93186度 |
ウィキプロジェクト |
概要
編集御野郡の弘西郷に北方村・四日市村・中井村・南方村・竹田邑があった。また三野郷には原村(後の牧石村)・宿村・三野村があった。
三野郷は御野郷とも書かれ、かつて御野郡の中心であった。備前国の国府が置かれたという説もある。
沿革
編集- 1875年(明治8年)3月 - 北方村に四日市村・中井村を合併。同時に竹田邑は上道郡へ移された。
- 1883年(明治16年)2月15日 - 連合戸長役場制度発足により、御野郡第ニ部戸長役場を北方村に設置し、同村および宿村・三野村・南方村を管轄[2]。
- 1889年(明治22年)6月1日 - 町村制の施行により、第ニ部戸長役場管轄区域4村および岡山区広瀬町・八番町・万町の各一部が合併して村制施行し、御野村が発足。北方・三野・宿・南方の4大字を編成し、役場を北方に設置[3]。
- この際、南方村のうち字梶久・字鍛冶屋土手・字鍛冶屋土手下・字兵團・字兵團尻・字蓮大寺の各一部は岡山市に編入された[4]。
- 1899年(明治32年)8月1日 - 南方の大部分が岡山市に編入し、御野村は3大字となる[3]。
- 1900年(明治33年)4月1日 - 津高郡と御野郡が合併し御津郡となる。
- 1921年(大正10年)3月1日 - 北方・三野を岡山市に、宿を牧石村に分割編入[3]。同日御野村廃止。
合併後
編集町村制施行時の4大字はいずれも岡山市の大字として継承されたが、1964年から1973年にかけて以下のように変更された[5]。
南方は南方1〜3丁目・岩田町・国体町・番町1〜2丁目・広瀬町・兵団・奉還町1丁目となった。
北方は北方1〜4丁目・いずみ町・絵図町・学南町1〜3丁目・国体町・清心町・津島中2丁目・津島東1〜2丁目・中井町1〜2丁目・法界院・南方4〜5丁目・三野1丁目・三野3丁目・大和町1〜2丁目となった。
三野は三野1〜3丁目・三野本町・北方2〜4丁目・宿本町・半田町・法界院となった。
宿は一部が宿本町・半田町・法界院・三野本町・理大町となった。
行政
編集歴代村長
編集代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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1-2 | 岩越宇七郎 | 1889年(明治22年)7月17日 | 1894年(明治27年)10月8日 | |
3 | 人見栄造 | 1894年(明治27年)10月22日 | 1897年(明治30年)12月17日 | |
4 | 大倉寿太郎 | 1897年(明治30年)12月23日 | 1900年(明治33年)8月28日 | |
5 | 出原正夫 | 1901年(明治34年)11月11日 | 1905年(明治38年)5月24日 | |
6-11 | 大倉寿太郎 | 1905年(明治38年)7月1日 | 1921年(大正10年)2月28日 | |
参考文献 - 岡山県市町村合併誌 市町村編 5頁(岡山県、1960年) |
教育
編集交通
編集- 中国鉄道本線
- 岡山市駅(後の岡山荷扱所、南方の南西端に所在[7]、現在の後藤総合車両所岡山気動車支所)
- 法界院駅
参考文献
編集- 『岡山市史 政治編』岡山市役所、1964年。