徐 道鄰(じょ どうりん、1907年12月4日 - 1973年12月24日)は、中国出身の法学者、官僚、外交官である。唐代・宋代の法、および新共和制国家の憲法研究に多大な貢献をした。全盛期には中華民国の役人・外交官を務め、晩年には台湾で中国法制史を、アメリカで中国文学と哲学を教えた。

徐道鄰
生誕 (1907-12-04) 1907年12月4日
日本の旗 日本 東京都
死没 1973年12月24日(1973-12-24)(66歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントン州シアトル
国籍 中華民国
出身校 ベルリン大学
職業 官僚、学者
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徐道鄰
各種表記
繁体字 徐 道鄰
簡体字 徐 道邻
拼音 Xú Dàolín
和名表記: じょ どうりん
英語名 Hsu Dau-lin
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生涯

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徐は1907年12月4日に日本東京都で生まれた。父の徐樹錚・中華民国の軍人で、徐が生まれた時には陸軍士官学校に留学していた。

一家は1910年に中国に戻り、徐は家庭教師のもとで古典教育を受けた[1]崑曲が家族の共通の趣味で、徐は竹笛を吹いていた。

ドイツに渡り、ハイデルベルク大学フランクフルト大学ジュネーブ大学で学んだ。1929年、ベルリン大学大学院で法学を学び始めた。同級生で友人のシュテファン・クトナー英語版ヘルムート・ヴィルヘルム英語版は、ベルリンで後に妻となるバーバラ・シューハルトを徐に紹介した。徐は1931年に大学院を卒業した。論文のタイトルは"Das Geltungs-problem im Verfassungsrecht"(憲法法における有効性の問題)だった。

1932年に中国に帰国して政府の官僚となり、蒋介石の個人秘書となった。翌年、バーバラ・シューハルトを中国に呼び寄せて結婚した。1937年、12年間のロシア留学から帰国したばかりの蒋介石の27歳の息子である蔣経国の家庭教師として寧波溪口鎮英語版に赴任した[2]。1938年から1941年まで、駐イタリア大使代理としてローマに赴任した。1942年には考試院の部長になった。1945年、行政院政務処長に任命された。1945年11月、父・徐樹錚を暗殺した馮玉祥を正式に告発するために、官僚の職を辞した[3][4]

国立中央大学法学部教授を務めていた時(1944~45年)に、『唐法入門』を出版した。1947年から49年まで上海の国立同済大学の教授兼法学院長を務めた。1947年に台湾省長官、1948年から1949年まで江蘇省長官を務めた[1][5]

1949年に妻と3人の子供とともに上海を離れ、アメリカに移住した。中国大陸が共産党の支配下に入った後の1951年に、香港を経由して台湾に渡った。最初の妻のバーバラとは、長い別居の後に1954年に離婚した。1954年から1958年まで国立台湾大学法学部の教授を務め、中国法とローマ法を教えた[1]。台湾で2人目の妻となる葉妙暎と結婚し、1男1女をもうけた。1958年から1962年まで台中の東海大学の政治学科長を務めた[1][6]。この間に父・徐樹錚の伝記を出版した[1]

1962年に、妻と2人の子供を連れてアメリカに移住して、ワシントン大学の研究教員に就任した。同大学には、かつての同僚であり友人でもあるヘルムート・ヴィルヘルムや義理の弟である李方桂が在籍していた。1965年にコロンビア大学ミシガン州立大学に勤務した後、1970年にワシントン大学の教職に就いた。晩年は、宋代の法律を中心に研究した[1]。1973年12月24日、ワシントン州シアトルで急逝した。

キャリアを通じて本を多数出版したものの、それらはドイツ語や中国語によるもので、英語には翻訳されておらず、アメリカでの知名度は低かった。

「日本は敵か友か」

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1934年9月、雑誌『外交論評』に、「敵乎?友乎?——中日關係的檢討」(敵か?友か? ——日中関係の検討)という記事が徐道鄰の署名入りで掲載された。

1935年2月9日、魯迅蕭軍中国語版英語版蕭紅に宛てた手紙の中で、この記事を嘲笑して、「彼は現代の富貴層の代弁者である徐樹錚の息子であり、日本が友か敵か疑った結果、『友』になることを決めたのである」と述べている。

この記事の序文には、蔣介石の指示により書かれたということが述べられている[7]黄仁宇中国語版英語版は「從大歷史的角度讀蔣介石日記」(歴史的な視点から蔣介石の日記を読む)の中で、「この記事が発表された後、少なくとも蔣介石の指示で書かれたものであることは、相手側の日本にもすぐに明らかになり、様々な出版物に翻訳・転載され、和平交渉の空気が一気に開いた」と述べている。蔣介石は1935年3月1日の日記で「(『敵乎?友乎?』で)私の外交政策や日本への態度を明確にすることは、私の政治人生の最重要課題の一つである。すでに国民はすでに理解し、賛成している。1月に入って外交状況が一変し、欧米も影響を受けており、間違ったことはしていないという自信がある。」と書いた[8]

脚注

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  1. ^ a b c d e f Anonymous. 1974. Necrology: Hsu Dao-lin. Sung Studies Newsletter Number 9, June 1974. Temple University, Philadelphia, Pennsylvania. [Includes a selected bibliography.]
  2. ^ Taylor, Jay. 2000. The Generalissimo's son: Chiang Ching-kuo and the revolutions in China and Taiwan. Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts.
  3. ^ Lean, Eugenia. 2007. Public Passions. The Trial of Shi Jianqiao and the Rise of Popular Sympathy in Republican China.Berkeley: University of California Press. pp 174-175.
  4. ^ Unpublished letter from Barbara Schuchard Hsu (Shanghai) to her mother Lea Schuchard (Berlin), dated 6 January 1946(ドイツ語)
  5. ^ Unpublished letter from Barbara Schuchard Hsu (Shanghai) to her mother, Lea Schuchard (Berlin), dated 6 September, ca 1948 (no year)(ドイツ語)
  6. ^ Unpublished letter from Hsu Dau-lin (Taichung, Taiwan) to his former mother-in-law, Lea Schuchard (Geneva, Switzerland), dated Mar 22, 1959(ドイツ語)
  7. ^ 《敵乎?友乎?·序》,中正文教基金會
  8. ^ 王彬彬,《敌乎?友乎?》的前因后果,载 并未远去的背影,广东人民出版社,2010年[リンク切れ]

外部リンク

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