徐幹
徐 幹(じょ かん、171年 - 217年)は、中国後漢末期の政治家・思想家・文人。字は偉長。青州北海郡劇県の出身。建安七子の一人[1]。著書に『中論』。
人物
編集旧家の生まれであったが家は貧しかった。しかし品行は優れ、文章も美麗典雅であった。建安年間、曹操に仕えて司空軍師祭酒掾・五官将文学へ昇進した[2]。
建安22年(217年)、華北で流行した疫病に倒れ死去した。
その人となりについて、曹丕は呉質への手紙の中で、「誠に頻々たる君子といえよう。その著書『中論』二十篇は、よく一家の言をなしたものであり、彼こそは不朽の人物である」と絶賛した。王昶は、自分の子供たちを戒める文書の中でその名を挙げ、「我が子が彼を手本とすることを希望する」と綴った[3]。『三国志』の著者の陳寿は、王衛二劉傅伝の評で王粲の功績を称えた後、「虚心にして大きな徳性を持った徐幹の純粋さには及ばない」と、王粲と比して徐幹を持ち上げている。
また、曹丕は著書『典論』の中で、「現代の文学者の七人」(いわゆる建安七子)の一人として徐幹の名を挙げているものの、辞賦の才については「徐幹は時に優れた気質を示すが、王粲の相手ではない」と評している。
著作
編集著作として『中論』二巻二十篇、および断片的な詩賦が伝わる。『中論』の内容としては、典型的な儒家思想を述べつつも、独自の名実論[4][5]や、修養論・運命否定論・性論を説く[4]。
訳注
編集史料
編集- 『三国志』魏書 巻21 王粲伝附 徐幹伝
脚注
編集外部リンク
編集- 中論 - 中国哲学書電子化計画