徐寿輝
徐 寿輝(じょ じゅき)は、元末の群雄の一人。蘄州羅田県の出身。
徐寿輝 | |
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天完 | |
皇帝 | |
王朝 | 天完 |
在位期間 | 1351年 - 1360年 |
都城 | 蘄水→漢陽→徳化 |
姓・諱 | 徐寿輝 |
諡号 | 応天啓運献武皇帝[1] |
廟号 | 世宗[1] |
生年 | 不詳 |
没年 |
天定2年6月16日 (1360年7月29日) |
年号 |
治平 : 1351年 - 1355年 太平 : 1356年 - 1358年 天啓 : 1358年 - 1359年 天定 : 1359年 - 1360年 |
生涯
編集元々は綿布の行商人をして生計を立てていたが、至正11年(1351年)8月に白蓮教を奉じて挙兵。湖北を本拠とし、紅巾の乱における有力な地方勢力の一つとなる。10月、国号を天完として皇帝を称し、年号を治平と号した。容貌魁偉であったため皇帝に推されたともいう。
紅巾党の中核をなす韓山童・劉福通らに対し、西部に拠ったので西派紅巾軍と呼ばれた。最盛時にはその勢力は湖広・江西から江浙に及んだ。
しかし次第に丞相に任じた倪文俊が台頭し、その地位を脅かすようになる。太平2年(1357年)に倪文俊は徐寿輝を除こうとして失敗し、黄州で部下の陳友諒に殺害されたが、ついでその麾下の勢力を糾合した陳友諒が急速に台頭し、やがて徐寿輝をも凌駕するようになる。天定2年(1360年)、徐寿輝は采石で陳友諒によって鉄撾で撃殺された。