徐宗実
明代の官僚
生涯
編集若くして聡明で、学問に熱心であった。洪武年間、推薦を受けて銅陵主簿に任じられた。孝養を求めて、洪武帝の意に逆らい、淮陰駅の戍卒に降格された。1388年(洪武21年)、東川侯胡海の子の胡観が洪武帝の十一女の南康公主をめとる[1]ことになると、宗実は胡観の師傅に任命された。宮中からの使者は他府の例を援用して、駙馬の胡観の席を中堂に置いて南向きにし、師の席を西の階上に置いて東向きにした。宗実は手ずから胡観の席を下にして、その後に教育をはじめた。洪武帝はこれを聞いて喜び、宗実を4回召し出して慰労した。
洪武末年、宗実は蘇州府通判に任じられた。官粟20万石をもって飢民に施すよう上奏した。春に洪水が起こり、堤防が損傷すると、宗実はその修築を提議した。ときに宗実は元の節婦王氏を顕彰するよう請願したが、礼部は前朝の事例であるして拒否した。宗実が「周の武王は殷の比干の墓を封じました。ひとつ前朝の事例ではありませんか」と発言すると、王氏への顕彰がおこなわれた。1400年(建文2年)、宗実は兵部右侍郎に抜擢された。事件に連座して左遷され、ほどなく復職した。靖難の変により建文政権が危機に陥ると、宗実は両浙に派遣されて義勇兵を招集した。1402年(建文4年)、永楽帝が即位すると、宗実は上疏して帰休を願い出た。1405年(永楽3年)、事件に連座して逮捕され、連行される途中に死去した。享年は62。
脚注
編集参考文献
編集- 『明史』巻137 列伝第25