後宮信太郎
後宮 信太郎(うしろく しんたろう、1873年(明治6年)6月17日 - 1960年(昭和35年)5月4日)は、日本統治時代の台湾で活躍した日本の実業家。苗字の読みは「うしろく」だが、「あとみや」とも名乗った[1]。名前は「のぶたろう」とも[2]。実弟に陸軍大将の後宮淳。甥に外交官の後宮虎郎。
略歴
編集京都府北桑田郡神吉村(現・南丹市八木町神吉)にて、地主で農家の後宮力を父に、五男三女の8人兄弟の長男として生まれる[3]。神吉小学校を経て同志社英学校(現・同志社大学)に進学するも、父親が木材事業に失敗したため中退し、神戸の外国商社に勤め、朝鮮への食料品事業の行商人となる[3]。
日本が台湾を割譲された1895年に渡台し、翌年妻トミと結婚[3]。台湾総督府文書課長だった鮫島盛(鮫島武之助の弟)を社長とする建築請負業「鮫島商行」の店員となり、人夫頭として働く[4][5][6]。鮫島商行はレンガの生産販売を始める[3]。1903年に社長の鮫島が急死したため事業を引き継ぎ、1913年に台湾煉瓦株式会社と社名を変更して事業の多角化を図り、30以上の工場に新しい技術と設備導入で台湾最大のレンガ事業を展開した[3][7]。レンガは台北駅、鉄道ホテル、総督府などあらゆるところで使用され、後宮の会社の台湾での市場占有率は七割を占め[6]、一時は台湾のレンガ王とまで呼ばれたが、借金も多く、借金王とも呼ばれた[4]。また、ビール製造の高砂酒造株式会社を設立の発起人に名を連ね、取締役になる[8]。「高砂麦酒(現・台湾ビール)」の名で成功したが、1920年の恐慌で水泡と化した[5]。1919年に南洋華僑の金融機関として華南銀行が設立された際には株主として総会を取り仕切り[9]、台湾商工銀行の重役も務めた[10]。
1925年、金瓜石鉱山を大阪の実業家田中長兵衛より購入し[4]、金爪石鉱山株式会社の社長に就任。1931年に同鉱山で新金鉱を掘り当て[11]、「金の湧く土」と称されるほど不況下にも盛況を極めた[12]。また朝鮮でも金山を買収し[13]、「金山王」と呼ばれるに至った[3]。なお、同社の取締役には養嫡子の後宮末男や赤司初太郎らも名を連ねる[3][14]。
レンガ、ビール、金山のほか、北投窯業(松本亀太郎設立の北投陶器所を買収[7])、台湾製紙(棚瀬軍之佐より買収[15])、後宮合名会社、台湾製壜など多数の企業を経営し、台北州協議会員、台湾総督府評議会員、台湾商工会議所会頭、台北商工会議所会頭などの要職に選抜されるなど、日本統治時代の在台湾日系資本の要人となる[16][6]。1932年には日本産業協会総裁の伏見宮博恭王から、植民地開発の功労者として表彰される[5]。
1933年に金爪石鉱山を久原財閥の日本鉱業に株券20万株と現金500万円にて売却し[17]、2000万円(2500万とも[18]。現在の200億円から300億円に相当[19])を得て以来、九州や朝鮮の事業に投資し、台湾以外でも知られるようになった[4][20]。日本鉱業株はその後急騰し、さらに巨万の富を得た[21][22]。これらの収益に対する所得税を脱税し追徴され、台湾での評価を下げたという[4][5]。同年、本拠を東京に移し、1934年に徳島に東邦人造繊維会社(現・東邦テナックス)[23]、同年、昭和製糖社長の赤司初太郎とともに満洲製糖会社[24]、1938年に新興化学工業[25]、1940年に南日本汽船[26][27]を設立して社長となり、台湾土地建物、日本アルミニューム(現・日本アルミ)などの監査役など多くの企業に関わった[28]。乳棒島炭鉱山、台湾リアンタイル、台湾ガス、東海自動車両運搬などの取締役社長も務めた[3]。1938年には故郷神吉村の尋常高等小学校改築資金として2万円を寄付し、紺綬褒章を賜わる[29]。
戦後は日本で暮らし、台湾協会会長を務めた[3]。財閥解体令の対象とはならなかったが、外地にあった事業はすべて没収された[30]。脳溢血により86歳で逝去[3]。墓所は多磨霊園。実子はなく養子に末弟の後宮末男と、ブラジルに渡りコーヒー地主となった後宮武雄[31]。武雄の後宮農場は2015年現在子孫によって存続している[32]。
関連書
編集- 『金山王後宮信太郎』台湾実業界社 編纂、蓬莱書院、1934
- 『黄金の人―後宮信太郎伝』西川満、新小説社、1957
関連項目
編集家族
編集脚注
編集- ^ 後宮俊夫氏によると、「うしろく」と読んでもらえないことが多く実業家の家系は「あとみや」、軍人家系は「うしろく」で通した。『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(37)ニッケイ新聞、2015年9月18日
- ^ Imigração para o Brasil
- ^ a b c d e f g h i j 後宮信太郎歴史が眠る多磨霊園
- ^ a b c d e 金山王後宮信太郎『台湾放言』宮川次郎 著 (蓬莱書院, 1934)p132
- ^ a b c d 東邦人造繊維社長 後宮信太郞『次代を背負ふ財界人』 (人物評論社, 1937) p12
- ^ a b c 中島利郎「台湾最初の児童文学者・西岡英夫研究序説 -大正期・台湾における「お伽事業」の創始」『岐阜聖徳学園大学紀要. 外国語学部編』第54号、2015年2月、69-102頁、ISSN 1346-0897、NAID 120006308245。
- ^ a b 工場巡り 台北附近台湾日日新報(新聞)1919.1.13-1919.1.29 (大正8)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 第三章 高砂麥酒株式會社『台湾酒専売史. 下巻』(台湾総督府専売局, 1941)
- ^ 華南銀行総会 台湾日日新報(新聞) 1919.1.30 (大正8)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 台湾の金融史は台湾銀行の歴史 中外商業新報 1923.4.16 (大正12)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 発見された新金鉱 台湾日日新報(新聞) 1931.8.22 (昭和6))、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 金の湧く土 大阪毎日新聞 1932.5.4 (昭和7)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 五十万円を投じて朝鮮の金山を買収台湾日日新報(新聞) 1932.7.6 (昭和7)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 金金金素晴らしい景気の金瓜石鉱山株式会社 大阪朝日新聞 1932.2.23 (昭和7)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 整理更生後順調に発展せる我台湾製紙台湾日日新報(新聞) 1936.8.31 (昭和11)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 蕭明禮「日本統治時期における台湾工業化と造船業の発展--基隆ドック会社から台湾ドック会社への転換と経営の考察 (台湾社会経済史の諸問題)」『社会システム研究』第15巻、立命館大学社会システム研究所、2007年9月、67-85頁、doi:10.34382/00003822、ISSN 13451901、NAID 110008584596。
- ^ 日鉱に買われた金瓜石金山身売りまでの経緯中外商業新報 1933.4.5 (昭和8)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 米人経営雲山金山身売京城日報 1934.8.9 (昭和9)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 昭和ゴールドラッシュと金山王後宮信太郎鍋島高明、日本金地金流通協会 協会誌『GOLD & PLATINUM』 2016 No.37
- ^ 台湾の開発には資本の招来が肝腎台湾日日新報(新聞) 1935.2.8 (昭和10)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 後宮信太郎『時代を創る者. 財界人物編 第2輯』 (人物評論社, 1938) p38
- ^ 朗かな後宮氏所得税の削減と手持株値上りで裁定に満足して挨拶廻り 税金納入など朝飯前台湾日日新報(新聞) 1934.1.25 (昭和9)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 繊維原料国策とステープル工業の全貌時事新報 1936.9.29 (昭和11)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 赤司、後宮氏を中心に満洲製糖会社を創立台湾日日新報(新聞) 1934.3.26 (昭和9)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 沿革新興化学工業
- ^ 海運管理令きょう公布大阪朝日新聞 1942.3.25 (昭和17)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ レファレンス事例詳細国立国会図書館、2007年10月03日
- ^ 日本アルミニューム会社創立手続完了 : 運転開始は来年秋台湾日日新報(新聞) 1935.6.22 (昭和10)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 褒章官報. 1938年08月19日
- ^ 『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(39)ニッケイ新聞、2015年9月22日
- ^ 『金山王後宮信太郎』台湾実業界社 編纂 (蓬莱書院, 1934)p51
- ^ 『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(41)ニッケイ新聞、2015年9月25日
- ^ 後宮信太郎さん『一瞥せる台湾』北原碓三 著 (拓殖産業協会, 1923)p82
- ^ 『金山王後宮信太郎』p8台湾実業界社 編纂、蓬莱書院、1934年
外部リンク
編集- 『金山王後宮信太郎』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 後宮信太郎と日系台湾財界人画像 - 辻利茶舗三好徳三郎個人文書、中央研究院 數位文化中心