張 子良(ちょう しりょう、1194年 - 1271年)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。字は漢臣。涿州范陽県の出身。

概要

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金末の混乱期には郷里の者を集めて「義軍(後の漢人世侯)」と呼ばれる自衛団を組織した。張子良は千人を率いて燕薊地方に移り、漁業を営み生活したが、やがて張子良に従う者が増え生活を維持できなくなってきた。金朝朝廷が燕薊地方の中都(大興府)から開封に遷都すると、張子良も南下して宿州寿州へと移住した[1]

この頃、金朝の首都の開封はモンゴル軍の包囲を受けて追い詰められた状態にあった。国用安なる人物がこれを救援しようと張子良を派遣し、モンゴル軍の包囲をくぐり抜けて開封城内に入った張子良は国用安の意図を伝え、金朝朝廷から歓待された。その翌年、張子良は米500石を開封城内に運び込んだ功績により栄禄大夫・総管陝西東路兵馬の地位を授けられて宿州を治めた。しかしモンゴル軍に阻まれて国用安の開封救援は上手く行かず、この頃張子良は長期に渡る戦争で困窮した徐州・宿州の民を保護している。ある時、モンゴル軍に遭遇した張子良は重傷を負ってしまい、やむなく泗州に移住した[2]

1238年戊戌)、張子良は遂に泗州西城の25県・軍民10万8千戸を率いてモンゴル軍の元帥アジュに来帰した。オゴデイ・カアンは張子良の来帰を受け容れて京東路都総帥に任命し、銀青栄禄大夫の地位を授けた。その後更に京東路行尚書省兼都総帥に昇格となり、1240年庚子)には金符を下賜されている。張子良は義軍を興して以来南北に転戦したが、張子良のおかげで死を免れた者は数え切れないほどであったという[3]

1253年癸丑)、第4代皇帝モンケの命によって帰徳府総管とされた。1261年(中統2年)4月には第5代皇帝クビライにより帰徳府・泗州総管に任じられた。1270年(至元7年)には改めて昭勇大将軍・大名路総管・兼府尹の地位を授けられたが、1271年(至元8年)に78歳にして亡くなった[4]。張懋と張亨という二人の息子がおり、張子良の死後は張懋が地位を継承した[5]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻152列伝39張子良伝,「張子良字漢臣、涿州范陽人。金末四方兵起、所在募兵自保。子良率千餘人入燕・薊間、耕稼已絶、遂聚州人、阻水、治舟筏、取蒲魚自給、従之者衆、至不能容。子良部勒定興・新城数万口、就食東平、東平守納之。久之、守棄東平還汴、檄子良南屯宿州、又南屯寿州。夏全劫其民出谿口、李敏拠州。子良率麾下造敏、敏欲害之、走帰宿、因以宿帥之衆奪全所劫老幼数万以還。全怒、連徐・邳之軍来攻。子良与宿帥斫其営、全失其軍符、走死揚州」
  2. ^ 『元史』巻152列伝39張子良伝,「時金受重囲於汴、声援尽絶、有国用安者、図以漣水之衆入援、道阻、游兵不能進。子良与一偏将、晝伏夜行、得入汴、達用安意。金君臣以為自天降也、曲賜労来、凡所欲、皆如用安請、因以徐・宿授子良。明年、子良進米五百石于汴、授栄禄大夫、総管陝西東路兵馬、仍治宿州。当是時、令已不行於陝、而用安亦卒不得志。徐・宿之間、民無食者、出城拾穭穟以食、子良厳兵護之、以防鈔掠。猝遇敵。子良被重傷、乃率其衆就食泗州。泗守閲兵、将図之、子良与麾下十数人、即軍中生縛其守。民不欲北帰者、欲走傍郡、子良資以舟楫、無敢掠其財物」
  3. ^ 『元史』巻152列伝39張子良伝,「歳戊戌、率泗州西城二十五県・軍民十万八千餘口、因元帥阿朮来帰。太宗命為京東路都総帥、授銀青栄禄大夫、陞京東路行尚書省兼都総帥、管領元附軍民、進金紫光禄大夫。庚子、賜金符。自兵興以来、子良転徙南北、依之以全活者、不可勝計」
  4. ^ 『元史』巻152列伝39張子良伝,「癸丑、憲宗命為帰徳府総管、管領元附軍民。中統二年夏四月、世祖命為帰徳・泗州総管、降虎符、仍管領泗州軍民総管。七年、罷元管戸、隷諸郡県、改授昭勇大将軍・大名路総管、兼府尹。八年、卒、年七十八。贈昭勇大将軍・僉枢密院事・上軽車都尉、追封清河郡侯、諡翼敏」
  5. ^ 『元史』巻152列伝39張子良伝,「子二人、長懋、次亨。亨、佩金虎符、為管軍千戸。子与立襲、卒。子鑑襲」

参考文献

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  • 元史』巻152列伝39張子良伝