雲台二十八将
概略
編集永平年間[1] に明帝が前代の功臣たちに命じて洛陽南宮の雲台に二十八将の肖像画を描かせた[2] ことから「雲台二十八将」と称される。また永初6年(112年)の安帝の詔に「建武元功の二十八将は天命を受けた天子を扶けた勇猛な臣下であり、讖記(予言書)に徴兆がある」という[3]。
雲台にはその他の功臣、王常・李通・竇融・卓茂も加えられて計32人が顕彰された[2] ため、「雲台三十二将」と称されることもある。しかし、同じく光武帝の功臣のひとりである馬援は、すでにその娘が明帝の皇后となっていたため選ばれなかった。東平王劉蒼が「なぜ伏波将軍(馬援)の像を描かないのですか」と尋ねたが、明帝は笑って答えなかったという[4]。
後漢書二十八将伝論
編集范曄は『後漢書』において「中興の二十八将は、前代には二十八宿の星座に対応したものという考えがあったが、未だ解明されていない」と述べた上で、「みな風雲に乗じて智勇を奮い、佐命の臣と称され、志操と才能とを兼ね備えた者たちである」と評価している。
また、雲台二十八将は天下統一の後に前漢初めの功臣のような粛清を受けなかった一方で、朝廷の要職に任用されることもなかった。『後漢書』はその理由について詳論している。
まず范曄は、「周の王道が廃れて覇道が行われた春秋時代でさえも、斉の桓公における管仲・隰朋、晋の文公における先軫・趙衰のように功臣・賢者はみな然るべき地位に就いていた。しかし、漢初の功臣は過大な封邑や地位を与えられたため、権勢を増して君主から疑惑の目を向けられ、乱が生じた。そうであれば蕭何・樊噲すら罪人扱いを受け、韓信・彭越が誅殺されてしまったのも当然である」と指摘する。
そして、功臣に対する光武帝の処遇について概ね次のように論じる。
:故に光武帝は前漢の失敗に鑑み、過ちを改めんとする志を抱いたのであり、大功ある寇恂・鄧禹・耿弇・賈復といえども食邑は多くとも四県[5] に過ぎず、位は特進・朝請にとどまった。
- 光武帝が実務に携わる官吏を規律した方針は「政をもって導き、刑をもって正す」[6] というものであったが、この方針で功臣をも規律しようとすれば、その弊害は甚だしかったであろう。
- なぜなら、法を厳格に適用すれば旧恩が損なわれ、情実によって法を緩めれば規範が廃れるからである。
- 有徳の者を登用すれば必ずしもその功は厚からず、功労ある者を登用すれば賢者とは限らない。
- 功臣・賢者をともに用いれば栄達を望む群臣の心に歯止めが利かず、高祖のように功臣のみ用いればその弊は遠い昔のことではない。
- これらの登用法の得失を比較し、事に応じて適切に行わなければならない。
- 故に光武帝は功臣には秩禄を増やし礼を厚くして報いる一方、官吏には法律を厳しく適用して職掌に応じた責任を負わせた。
- 建武年間に封侯された者は百人余りであったが、鄧禹・賈復ら数人だけが国政の議論に参与して国の禍福を分かちあい[7]、その他の者は法を緩やかに適用されて封禄を全うし、みな功名によって余慶を末代に伝えたのである[8]。
なお、この雲台二十八将を論じた『後漢書』列伝12の文章は、『文選』巻50・史論下に「後漢書二十八将伝論」として収録されている。
序列
編集雲台二十八将の序列は以下の通りである[9]。
- 太傅・高密侯 鄧禹
- 大司馬・広平侯 呉漢
- 左将軍・膠東侯 賈復
- 建威大将軍・好畤侯 耿弇
- 執金吾・雍奴侯 寇恂
- 征南大将軍・舞陽侯 岑彭
- 征西大将軍・陽夏侯 馮異
- 建義大将軍・鬲侯 朱祜
- 征虜将軍・潁陽侯 祭遵
- 驃騎大将軍・櫟陽侯 景丹
- 虎牙大将軍・安平侯 蓋延
- 衛尉・安成侯 銚期
- 東郡太守・東光侯 耿純
- 城門校尉・朗陵侯 臧宮
- 捕虜将軍・楊虚侯 馬武
- 驃騎将軍・慎侯 劉隆
- 中山太守・全椒侯 馬成
- 河南尹・阜成侯 王梁
- 琅邪太守・祝阿侯 陳俊
- 驃騎大将軍・参蘧侯 杜茂
- 積弩将軍・昆陽侯 傅俊
- 左曹・合肥侯 堅鐔
- 上谷太守・淮陵侯 王覇
- 信都太守・阿陵侯 任光
- 豫章太守・中水侯 李忠
- 右将軍・槐里侯 萬脩
- 太常・霊寿侯 邳彤
- 驍騎将軍・昌城侯 劉植
注釈
編集- ^ 『東観漢記校注』は『資治通鑑』巻44・漢紀36を根拠として永平3年2月とする。
- ^ a b 『後漢書』列伝12。
- ^ 『後漢書』列伝7・馮異伝。
- ^ 『後漢書』列伝14・馬援伝。
- ^ 鄧禹の食邑を指す。耿弇の食邑は二県、賈復の食邑は六県。
- ^ 『論語』為政篇に「之を道(みちび)くに政を以てし、之を斉(ととの)えるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し」という。
- ^ 賈復は朱祜らから宰相の適任者として推薦されたが、光武帝が国政の実務上の責任を三公に負わせ、功臣を用いなかったため、賈復は宰相に就任しなかった。ただし鄧禹・李通・賈復は三公・九卿とともに国家の大事について議論に参与した。『後漢書』列伝7・賈復伝。
- ^ 安帝は永初6年の詔により、二十八将の後裔のうち世嗣を絶やしたり罪によって封地を失った者の子孫で後継の資格を有すべき者を列挙させ、遺功を顕彰した。翌年には二十八将の子孫で封地を絶たれた者をみな紹封した。
- ^ 『後漢書』列伝12による。なお、『資治通鑑』永平3年2月条では鄧禹・馬成・呉漢・王梁・賈復・陳俊・耿弇・杜茂・寇恂・傅俊・岑彭・堅鐔・馮異・王覇・朱祜・任光・祭遵・李忠・景丹・萬脩・蓋延・邳彤・銚期・劉植・耿純・臧宮・馬武・劉隆の順に配列されている。これに対し胡三省は『通鑑』注において司馬光による序列の誤りを指摘している。王先謙『後漢書集解』に引く王補の説も胡注を採り、「鄧禹・馬成・呉漢・王梁…」と一列に配した『後漢書』刊本の存在を指摘した上これは誤りであるという。鄧禹から劉隆までを上段に、馬成から劉植までを下段に置いて28人を上下二列に配した明代の汲古閣本『後漢書』が范曄による本来の表記を伝えているとしている。序列を誤った刊本は上下二列の体裁を誤読した結果ということである。