延徳村
日本の長野県下高井郡にあった村
延徳村[1][2](えんとくむら)は、長野県下高井郡にあった村。現在の中野市中心部の南西、長野電鉄長野線沿線にあたる。
えんとくむら 延徳村 | |
---|---|
廃止日 | 1954年7月1日 |
廃止理由 |
新設合併 中野町、日野村、延徳村、平野村、長丘村、平岡村、高丘村、科野村、倭村 → 中野市 |
現在の自治体 | 中野市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方(甲信越地方) |
都道府県 | 長野県 |
郡 | 下高井郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
3,386人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 下高井郡中野町、日野村、平野村、上高井郡都住村、山田村 |
延徳村役場 | |
所在地 | 長野県下高井郡延徳村大字三ツ和字大熊日向[1] |
座標 | 北緯36度42分30秒 東経138度20分56秒 / 北緯36.70847度 東経138.34881度座標: 北緯36度42分30秒 東経138度20分56秒 / 北緯36.70847度 東経138.34881度 |
ウィキプロジェクト |
歴史
編集村名の由来
編集延徳年間頃に遠洞湖を干拓し、耕地化した「延徳田圃」から。低地にあるため水害に遭いやすく、明治時代に救済策として杞柳(行李)の生産を奨励。豊岡杞柳細工で知られる兵庫県豊岡町(現・豊岡市)とは、大正から昭和にかけて杞柳細工の指導を仰いだり、神社を勧請して建立するなどの交流があった[3][4]。
沿革
編集行政
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村長
編集- 酒井鶴之助 1889年5月 - 1891年12月[1]
- 小林常松 1891年1月 - 1893年9月[1]
- 青木彦兵衛[1][5] 1893年9月 - 1904年5月[1]
- 郷道半治[2] 1904年7月 - 1905年3月[1]
- 郷道半治 1908年2月 - 1912年1月[1]
- 藤牧林右衛門[2][6] 1912年2月 - 1916年1月[1]
- 金子大治郎[2]
- 柴本千代太[2]
- 宮崎準治郎[2]
- 酒井鶴之助[2]
- 小林常松[2]
- 郷道義太郎[2]
助役
編集- 山崎庄助 1889年5月 - 1891年3月[1]
- 久保田庄兵衛 1891年3月 - 1898年7月[1]
- 小林常松 1898年7月 - 1901年1月[1]
- 黒崎啓治 1901年3月 - 1905年3月[1]
- 酒井實之助 1909年4月 - 1912年12月[1]
- 柴本熊太郎 1912年3月 - 1913年3月[1]
- 柴本八作 1913年4月[1] -
収入役
編集経済
編集産業
編集- 金融機関
- 延徳銀行[7]
人口
編集出身人物
編集交通
編集鉄道路線
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『長野県市町村提要』下高井郡延徳村19 - 21頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『市町村治績録 改訂第2版』長野県60頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月9日閲覧。
- ^ 『角川日本地名大辞典 20 長野県』219 - 220ページ。
- ^ 長野市立博物館「博物館だより 第47号」1999年7月2日。
- ^ 『職員録 明治29年 乙』長野県163頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月7日閲覧。
- ^ 『大日本紳士名鑑』長野県下高井郡54頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月9日閲覧。
- ^ 『日本全国諸会社役員録 明治36年』長野県429頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月6日閲覧。
参考文献
編集- 商業興信所編『日本全国諸会社役員録 明治36年』商業興信所、1893 - 1911年。
- 『職員録 明治29年 乙』印刷局、1896年。
- 竹内伊四郎編『大日本紳士名鑑』明治出版社、1916年。
- 文竜館編『長野県市町村提要』文竜館ほか、1918年。
- 日本自治協会編『市町村治績録 改訂第2版』日本自治協会、1930年。
- 『角川日本地名大辞典 20 長野県』。
関連項目
編集- 長野県の廃止市町村一覧
- 頓所式1型 - 当村で飛行した日本初の国産ハンググライダー