廃妃(はいひ、はいき)は、王室皇室における王妃皇妃王太子妃皇太子妃などがとしての身分を奪われること。また奪われた本人を指す。皇后の場合は廃后と呼ばれる。

ヨーロッパ

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キリスト教国教定められる以前のローマ帝国では皇帝による皇后の離婚は頻繁であった。キリスト教化が行き渡ったヨーロッパの王室にあっては、離婚が教義上の問題となってイギリス国教会の設立にまで到ったイングランド王ヘンリー8世によるキャサリン・オブ・アラゴンアン・ブーリンの離婚がその代表例となる。

中国・朝鮮

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中国においては、『春秋』に「子以母貴、母以子貴(子は母を以って貴し、母は子を以って貴し)」とあり、七去には、「子供ができないため妻を離婚できる」という概念もある。特に前漢には、皇子が産まれなかった皇后を廃し、皇子を持った後宮の女を皇后に立てる事件がしばしば発生した。後漢以降、皇子を産まなかった皇后は多いが、家柄を重んじる風潮があったため廃后の例は少ない。六朝には廃后の例は存在しない。以後は皇帝とは仲が悪くなるも廃妃の主な原因となる。総じて、皇太子を出産した皇后の地位は保障され、政争を除き廃位された可能性が低い。

また自ら廃后を申し出る場合もある。『明宣宗実録』によれば、宣徳帝の皇后胡善祥は男子を儲けなかったために廃后を申し出、皇帝や皇太后も止めたが聞き入れることなく、貴妃の地位に落とされたとされる。ただしこれは実際の経緯からみると強制されたものとみられる[1]

廃妃の結末については、それぞれ大きく異なる。貴妃など下位の妃嬪の地位に落とされ、後宮にとどまる例もある。また別居し、ある程度の地位を保つ例もある。後漢光武帝の廃后郭聖通は中山王太后に改封され、平穏な生活を送った。あるいは出家して女道士または尼となった。悪い場合には庶民に落とされて幽閉され、さらには賜死に追い込まれることもある。この場合、一族にも粛清、流刑などの厳罰が下されることが常であり、より陰惨な様相を呈する。典型的な例は、高宗王皇后は新しい皇后である武則天の台頭によって極刑に処せられた。一族も追われ、姓も「王」から「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)に変えられた。

また、王の廃位によってその正妃が称号を奪われる場合にも用いられる。李氏朝鮮で廃位された燕山君正妃の慎氏は廃妃により居昌郡夫人、光海君正妃の柳氏は文城郡夫人と「妃」の称号を奪われた。

廃后・廃妃が元の地位に復帰することもしばしばある。宣徳帝の廃后胡善祥は、没後に皇后位が追贈されている[2]。朝鮮王中宗の廃妃である端敬王后も、没後に復位された。

日本

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光仁天皇の皇后であった井上内親王宝亀3年(772年)に天皇を呪ったとして廃后となり、子の他戸親王も廃太子となり、翌年には庶人に貶された[3]。没後の延暦19年(800年)には名誉回復され、皇后位が贈られた[4]。また清和天皇の皇后であった藤原高子は、清和天皇没後の寛平9年(897年)に密通事件により皇太后の号を廃されたが死後に復帰している。

脚注

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  1. ^ 前田尚美 2010, p. 62.
  2. ^ 前田尚美「「嫡母」と「生母」 : 明代の皇后・皇太后の歴史的位置」『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編』第12巻、京都女子大学大学院文学研究科、2013年、130頁。 
  3. ^ 青木敦 1966, p. 17-18.
  4. ^ 青木敦 1966, p. 22.

参考文献

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  • 青木敦「井上内親王とその周辺 : 歴史物語における史話的・民俗的素材についての一考察」『跡見学園短期大学紀要』第4巻、跡見学園女子大学短期大学部、1966年、NAID 110001041511 
  • 前田尚美「明朝の皇位継承問題と皇太后 : 誠孝皇后張氏を例に」『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編』第9巻、京都女子大学、2010年、49-80頁、NAID 120005541587