広目屋
広目屋(ひろめや、正式名称株式会社廣目屋)は、日本の広告代理店である。1885年(明治18年)創業の老舗である。
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 |
日本 〒104-0061 東京都中央区銀座1-6-1 廣目屋ビル |
設立 | 1923年10月1日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 5010001054923 |
事業内容 | 博覧会、展示会等の催事のディスプレイ |
代表者 | 取締役社長 島名富士夫 |
資本金 | 1,022万円 |
従業員数 | 30名 |
外部リンク | http://www.hiromeya.co.jp/ |
略歴・概要
編集1885年(明治18年)、秋田柳吉が東京市京橋区五郎兵衛町(現在の東京都中央区八重洲2丁目)に開業した。「廣目屋」の命名は小説家の仮名垣魯文である。当初は「楽隊広告」、いわゆる「チンドン屋」で知られ、「西の東西屋、東の広目屋」と呼ばれた。
1895年(明治28年)、日清戦争をテーマに、幻灯上映を芝区(現在の港区芝公園)の「弥生館」で、川上音二郎の演劇を「浅草座」でそれぞれ興行し、それがそれぞれ同社の「興行部」、「装飾部」の始まりとなる。「宣伝広告部」に関しては、
1897年(明治30年)、現在も同社の位置する銀座1丁目に移転、「宣伝広告部」と「興行部」、「装飾部」の3部を置く。同年2月21日、大阪の荒木和一が、エジソン社の「ヴァイタスコープ」を大阪で公開、続いて3月6日には東京の「新居商会」が神田錦輝館(神田区錦町、現在の千代田区神田錦町)で公開するにあたり、宣伝の発注を受けた。同時に上陸したフランス・リュミエール社の「シネマトグラフ」は大阪ではヴァイタスコープの7日前に公開されたが、東京では「3日間」早く公開することに成功した。
1905年(明治38年)、明治座で、日露戦争を撮影した『日露戦争実写活動写真』を興行。
1923年(大正12年)10月1日、「株式会社廣目屋」と法人組織に改組、現在に至る。
1972年(昭和47年)、現在地に本社ビルを竣工した。
「廣目屋」 開店や大売出しを宣伝する楽隊などを使った広告屋。チンドン屋の先駆。大阪からやってきた秋田柳吉が明治21年(1888年)、京橋五郎兵衛町で広告宣伝の店「廣目屋」(屋号は仮名垣魯文による)を開業。やがて「廣目屋」は、広告屋を意味する普通名詞 として用いられるようになっていった。「廣目屋」と記された幟と、編み笠をかぶった和服姿の楽隊の絵あり。 『世渡風俗圖會』にも、編み笠をかぶった楽隊の廣目屋や、大八車に商標を飾り付けた廣目屋が描かれている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「廣目屋」より抜粋[1]
データ
編集- 所在地 東京都中央区銀座1丁目6-1 廣目屋ビル
- 資本金 1,022万円
- 代表者 取締役社長 島名富士夫
- 事業内容
- 博覧会、展示会等の催事のディスプレイ
- 店舗インテリア、屋内外装飾、一般宣伝広告POP広告
- 式典、集会場等の設営
脚注
編集- ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「廣目屋」国立国会図書館蔵書、2018年2月10日閲覧
関連事項
編集外部リンク
編集- web廣目屋 - 公式サイト