広瀬伸一
広瀬 伸一(ひろせ しんいち、1957年12月12日[1] - 2007年9月26日)は、元アナウンサー。ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)アナウンサーを経て、フリーアナウンサーとして中央競馬の実況を中心に活躍した。
略歴
編集神奈川県横浜市出身[1][2]。法政大学法学部卒業後、東京アナウンスアカデミーに入学。1981年、日本短波放送に入社[1][3]。初実況は1982年5月2日の京都1R、アラブオープン(勝馬:ヒミノタカ)。1990年6月上旬までは東日本の競馬場(札幌、函館、福島、新潟、東京、中山)を中心に実況を担当してきたが、同年7月からは西日本の競馬場(中京、京都、阪神、小倉)を中心に実況を担当していた。
2003年に退社し、その後はフリーアナウンサーとなる。
1996年のバイオレットステークスでは、降雪の中、全く馬が見えない状況で実況したり、実況を担当するレースになぜか審議がかかることが多いとされるなどのエピソードがある。ちなみに後者のエピソードに関しては、本人が自ら調べ、その風評を否定していた。
大学時代より映画鑑賞を趣味とし、映画には大変詳しかった。また、宝塚歌劇のファンでもあった。ビールとチヂミと海鮮焼きそばを好んだ。
フリー転向後は、競馬実況だけでなく、英知大学(後の聖トマス大学)などで、学生により良い話し方を教授した。
2006年7月に難治性の未分化がんであるとの診断を受けたが、仕事に対する情熱をいささかも失うことなく実況を続けた。ラジオNIKKEI携帯公式サイト「競馬インパクト」の2007年2月1日付の自筆コラムにおいて、胃がんである旨を公表。外科的治療のため一旦実況を休止するも、同年2月25日の前半の実況で復帰した。
しかし2007年5月末、病状が悪化。懸命の治療も空しく、同年9月26日12時41分(JST)死去。49歳没。訃報を受け、ラジオNIKKEIでは9月29日・30日に競馬中継終了後に追悼番組『声で伝え続けた四半世紀(広瀬伸一さんを偲んで)』を放送。また、グリーンチャンネルでも『RIDE ON 22』の同年10月17日放送分で追悼コーナーを設けて放送した。[4]
競馬GI実況履歴
編集- 高松宮記念(1997年・1999年〜2001年)
- 桜花賞(1994年・1997年・2003年)
- 天皇賞(春)(1995年・2002年・2004年〜2006年)
- 優駿牝馬(1988年〜1990年)
- 宝塚記念(1991年〜1993年・1996年・1998年〜2002年・2004年)
- 秋華賞(1997年・1999年〜2001年・2003年・2005年)
- 菊花賞(2004年・2006年)
- エリザベス女王杯(1994年・1996年・2001年〜2002年)
- マイルチャンピオンシップ(1991年〜1993年・1995年・1997年〜1999年・2003年・2006年)
- 阪神ジュベナイルフィリーズ(1992年〜2002年)
- 有馬記念(1989年)
脚注
編集- ^ a b c 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、230頁。
- ^ “あなたにも出来る!社労士合格体験記(第58回)--やはり会っておかなければ・・・”. 東洋経済オンライン (2012年9月11日). 2022年12月29日閲覧。
- ^ “広瀬伸一アナウンサーが死去 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年12月29日閲覧。
- ^ “◆訃報◆ 広瀬伸一アナウンサー死去|競馬実況web|競馬|ラジオNIKKEI”. ラジオNIKKEI. 2022年12月29日閲覧。