広村 (広島県)

日本の広島県賀茂郡にあった村

広村(ひろむら)は、かつて広島県賀茂郡に属していたである。現在の呉市広地区。

ひろむら
広村
廃止日 1941年4月21日
廃止理由 編入合併
広村仁方町 → 呉市
現在の自治体 呉市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陽地方
都道府県 広島県
賀茂郡
広村役場
所在地 広島県賀茂郡広村
座標 北緯34度13分57秒 東経132度36分55秒 / 北緯34.2325度 東経132.6153度 / 34.2325; 132.6153 (広村)座標: 北緯34度13分57秒 東経132度36分55秒 / 北緯34.2325度 東経132.6153度 / 34.2325; 132.6153 (広村)
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歴史

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災害

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  • 1884年(明治17年)8月25日 - 台風接近に伴う高潮により広村一帯が著しい被害を受けた。翌年、末広橋付近に高潮の被害を伝える「膺懲碑(ようちょうひ)」が有志により建立されたが、2020年に広市民センター敷地内に修復の上で移設されている[1]
  • 1967年(昭和42年)7月9日 - 津久茂で集中豪雨による山崩れ。9戸が倒壊し、死者・行方不明者21人[2]

村名の由来

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広村の村名の由来は諸説ある。

  • 広地区は埋立地であり、大昔は大きな入り江になっていた。
    入り江の干潮線は辺りの山々の裾にまで達しており、ひろびろとした海湾を称して「ひろ」と名付け、「広」という漢字を当てた。
  • 「ひろ」は入り江状態の湾だったが、潮が引くと辺り一面干潟となり、ひろびろとした砂浜が現れたので「広」となった。

などである。

産業

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農業

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『大日本篤農家名鑑』によれば、広村の篤農家は、「藤田譲夫、石藤薫一、檜垣照吉、大洲敏」などがいた[3]

地主

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広村の西本万助は大地主である[4]

鉱業

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文政年間、1827年から白岳山一帯で石灰岩の採掘が開始される。当時、石灰窯で加工した石灰を農地へ投入することにで作物の収穫量が増加することが見いだされており、肥料の一種として利用が増加する傾向にあった[5]1904年以降は、村有林内の採掘権を企業に譲渡することで、村に収入がもたらされた[6]

脚注

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  1. ^ 「呉の広地区明治期に被害 高潮の碑 移設して除幕」『中国新聞』2020年(令和2年)11月24日、16面
  2. ^ 「なお41人 呉市の行方不明」『朝日新聞』昭和42年7月10日夕刊、3版、11面
  3. ^ 『大日本篤農家名鑑』150頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月5日閲覧。
  4. ^ 『広島県下役員録』2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年5月17日閲覧。
  5. ^ いち早く使用制限-廉価で大流行の石灰肥料 三重県環境生活部文化振興課県史編さん班 2017年7月17日閲覧
  6. ^ 「工業の推移」『呉市史 第6巻 第5章 広村』pp.985 昭和63年3月31日 市史編纂委員会

参考文献

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  • 佐古豊次郎編『広島県下役員録』広島独立通信社、1909年。
  • 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
  • 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。

関連項目

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