平田の渡し
大阪市の東淀川区と対岸の旭区を結んでいた渡し船
平田の渡し(へいたのわたし)は、大阪市の東淀川区と対岸の旭区を結んでいた渡し船。延宝4年(1676年)ころから起こり[1]、1970年に、豊里大橋ができるまでの294年間、淀川を行き来していた。
平田の渡しは平太の渡しとも書かれ、この名前は大道村(東淀川区大桐)の土豪沢田佐平太の名前に由来するという説もあるが[2]確かなことはわからない。
概要
編集明治37年(1904年)の淀川改修により場所を移し、個人経営から村営に変更されたが、名称は「平田の渡し」として存続した。その後、経営が明治40年(1907年)から府営に、大正14年(1925年)から大阪市営となる。昭和35年(1960年)には、需要増を受け、それまでの手漕ぎから発動機船に替えられ、最盛期には1日に約3000人、670台の自転車を運んだとされている。
昭和45年(1970年)、日本万国博覧会の関連事業による豊里大橋の完成に伴い、淀川最後の渡船場であった「平田の渡し」は姿を消すことになった。現在はその名残として、東淀川区側に「『平田の渡し跡』石碑」、旭区側に「『平太の渡し跡』碑」が建てられている[3]。