平 時実(たいら の ときざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家桓武平氏高棟王流、権大納言平時忠の長男。官位従三位左中将。讃岐を号す。

 
平時実
時代 平安時代末期-鎌倉時代初期
生誕 仁平元年(1151年
死没 建暦3年1月29日1213年2月21日
別名 讃岐
官位 従三位左中将
主君 六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇
氏族 桓武平氏高棟王
父母 父:平時忠、母:時忠の前妻
兄弟 時実時家時宗時定時国宣子蕨姫玉織姫中山忠親
吉田経房の娘
時秀、女子
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経歴

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仁安元年(1166年従五位下叙爵されると同時に越後守任官する。仁安3年(1167年)従五位上、嘉応元年(1169年正五位下と昇叙されたのち、嘉応2年(1170年讃岐守承安2年(1172年左近衛少将に任ぜられた。

少将と讃岐守を務めながら、承安3年(1173年従四位下安元2年(1176年)従四位上と昇進を続ける。その後、寿永元年(1182年正四位下、寿永2年(1183年)4月に左近衛中将に叙任される。しかし、同年7月の平家の都落ちに従って解官された。

元暦2年(1185年)3月に壇ノ浦の戦いで捕らえられてに戻り、5月に周防国への流罪が決まったが、義兄弟となっていた源義経に接近して配所に赴こうとしなかった。11月に義経が源頼朝と対立して京を退去するとこれに同行するが、摂津国大物浦で船が転覆し、離散して京に戻る途上で村上経業の弟・禅師経伊に捕らえられた[1]

その後、鎌倉に護送され、文治2年(1186年)正月に上総国配流された。文治5年(1189年)に赦免されて帰京。建暦元年(1211年)には従三位に叙された。建暦3年(1213年)1月29日薨去、頓死であったという[2]

公家でありながら「心猛き人」と評された[3]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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関連作品

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テレビドラマ

脚注

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  1. ^ 吾妻鏡
  2. ^ 『公卿補任』
  3. ^ 源平盛衰記