平山 孝(ひらやま たかし、1897年2月6日[1] - 1979年7月8日[2])は、日本鉄道官僚東京急行電鉄社長

経歴

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東京府出身[1]1920年高等文官試験に合格[1][3]。翌年東京帝国大学法学部独法科を卒業する。卒業後は鉄道省に入り、欧米出張、帰国後は仙台鉄道局経理庶務の各課長、鉄道書記官、監督局業務課長、鉄道大臣書記官文書課長、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道局経理局長を経て[1]1945年東京急行電鉄社長に就任する。同年、運輸次官となる。運輸次官は1947年まで務め、その後は「東京急行社長」のため公職追放となった[4]

追放解除後は交通道徳協会会長に就任した。戦後は観光事業に注力して、1951年(昭和26年)6月に株式会社国際観光会館を設立、1954年(昭和29年)に東京駅八重洲口に「国際観光会館」を建設した。1953年(昭和28年)夏には、日本観光事業特別視察団の団長として76日にわたり欧米12カ国を見学。1957年(昭和31年)時点で、国際観光協会副会長、全日本観光連盟副会長[5]。1979年死去。死去した時点で、日本交通協会会長。墓所は谷中霊園

親族

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  • 妻:平山登美子 - 陸軍大将大迫尚道の長女[1]
  • 長女:平山千代子 - 1925年-1944年
  • 次女:平山節子
  • 三女:平山洋子

著書

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  • 『鉄道財政の話』(鉄道生活社、1926)
  • 『鉄道会計』(鉄道書院、1930)
  • 『鉄道財話』(鉄道書院、1933)
  • 『鉄路 西と東』(春秋社、1937)
  • 『ゴルフ筆談』(四季社、1953)
  • 『みの - 美しいものになら』(平山千代子[6]著、四季社、1954)
  • 『あぜ道』(未確認)
  • 『さんご抄 - 観光団長の記』(四季社、1957)
  • 『観光うらおもて』(真珠書院、1964)
  • 『遊ぶ』(経済往来社、1975)

翻訳書

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脚注

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  1. ^ a b c d e 日本官界情報社 編『日本官界名鑑』1942年、15頁。NDLJP:1271159 
  2. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』1044頁。
  3. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』228頁。
  4. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、119頁。NDLJP:1276156 
  5. ^ 『さんご抄』(四季社、1953年)の奥付による
  6. ^ 平山孝の長女で、1925年に生まれ、1944年に肺炎で死去。『みの』はその遺稿集。

参考文献

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  • 『日本官界名鑑』昭和十七年版、日本官界情報社、1942年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ、2012年。