御幣
御幣(ごへい、おんべい、おんべ)とは、神道の祭祀で捧げられ用いられる幣帛(へいはく)の一種で、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串に挟んだものである。幣束(へいそく)、幣(ぬさ)[1]ともいう。
概説
編集通常、紙垂は白い紙で作るが、御幣にとりつける紙垂は、白だけでなく五色の紙や金箔・銀箔が用いられることもある。
「幣」は麻(麻布)、「帛」は絹(白絹、絹布)を意味する。両者は捧げ物の代表的な事物であることから、本来「幣帛」で神々への捧げ物の「総称」を意味する。
「幣帛」は「充座」(みてぐら)、「礼代」(いやじり)ともいう。「幣帛」は、広義では神饌(食物)も含むが、狭義では神饌に対する特に布類を指す。布類では麻布が主流なので、主に「幣」の字が用いられることになる。現物の代わりに「幣帛料」として捧げられる金銭を「金幣」という。
「御幣」とは、神々への捧げ物を意味し、貴重な品を示す「幣」(へい)に、尊称の「御」(ご)を付けたものである。
捧げ物としての御幣の中心は、両側に長く折り下げられた部位(紙垂)ではなく、串に挿(はさ)まれた部分、そのものにある。
御幣の歴史
編集日本では、古墳時代の頃すなわち日本国家の創成期、神話の時代から、神々に対し貴重な品々「幣帛」を捧げてきた。
それらは稲(米)、酒(みき、酒造技術)、塩、魚などの神饌(みけ)のほか、鉄製の武器(刀剣類)や農工具(=製鉄・鍛造技術)・器・玉(=宝飾加工技術)・鏡(=鋳造・研磨技術)・衣類・布類(=養蚕・製糸・織布技術)など、その時代の最先端技術を象徴する物でもあった。また、これらの品々は神々の霊魂が宿る依り代、神々の象徴でもあった。
その後、奈良時代後半から平安時代前期にかけて、幣帛は特に布類を指すようになる。
捧げ方も多様化し、折り畳んだ布を串=「幣挿木」(へいはさむき)に挿んで捧げる形式が登場する。この幣挿木が現代の御幣へとつながっていく。幣挿木が神々への捧げ物だと示すため、捧げ物本体である「幣帛」(=布類)とともに、神聖性を表現する木の皮の繊維(木綿という)や麻を串に挿んで垂らしたのである。
時代が経つにつれ、「幣帛」は「布」に代わって「紙」を用いるようにもなる。「紙」もまた、当時の貴重な品であった。この際も「木綿・麻」を垂らしていたが、その代わりに、細長く折り下げた紙を両側に垂らす形式も見られるようになる(13世紀末頃)。これを「紙垂」(しで)と呼ぶ。
室町時代から江戸時代にかけて、榊(玉串・真榊)のほか、神前に御幣を捧げる形が普及・定着化し、中世以降の御幣は、捧げ物本体である「幣紙」と神聖性を示す「紙垂」とそれらを挿む「幣串」から成る構造が、一般的となる。
その後、御幣の基本的な構造に変わりは見られないが、祭のたびに幣紙・紙垂部分が新調され、紙垂を大きく作る形式も広まっていった。木綿・麻と同様に細かった紙垂は、徐々に太く大きくなり、挿む位置も上部になる例が多く見られるようになった。やがて、幣紙と紙垂が一体化した形式も現れることになる。
その特徴的な造形から、次第に紙垂部分が強調されていき、白紙のほか、染色した紙や金属製の紙垂部分を持つ御幣も現れ、紙垂の持つ印象はさらに強くなっていった。
今でこそ、「紙垂」こそが御幣の象徴として認識されることもあるが、元来の捧げ物としての性格を受け継ぐのは、その中心である「幣帛」部分であり、そこには、各時代における最上の品が用いられていた。こうして、神話の時代から現代まで捧げられ続けているのが「御幣」なのである。
その由来から、元々は神に捧げるものであったが、後に社殿の中に立てて「神の依代」あるいは「御神体」として、あるいは祓串のように参拝者に対する「祓具」としても用いるようにもなった。
なお、長い棒や竹の先端に幣束を何本か取付けたもののことを、特に「梵天」(ぼんてん)という。
紙が普及する以前は、ヤナギ、ニワトコ、ヌルデ、クルミ、マツなどの木の肌の一部を薄く削ぎ、渦状にちぢらせて残し垂らしておく「飾り棒削り掛け」も御幣の古い形の祭具として用いられた[4][5][6]。「削り花」(削花、ハナとも)、「穂垂」(ほたれ)、「掻垂」(かいたれ)とも[4][6]。アイヌにも同様のイナウがある[4]。