中国の制度史における幕府(ばくふ、拼音: mùfǔ)とは、「地方官が政務を執る役所」を指す[1]。「幕府」という言葉は元々は、匈奴討伐に赴く武官が、天幕(幕)で築いた役所(府)を指した[1]

中国ではそこから転じて、「文官の地方官の秘書組織」を指すようになった[2][3](本項ではこれを扱う)。

概要

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前近代中国、特に代の地方官には、「廻避」という規定、すなわち地方官が現地の人間と癒着しないよう、本籍地から遠く離れた見知らぬ土地に赴任させるという規定があった[2]。その上で、地方官が現地の胥吏(実務を担う地元の役人)を監督することにより政務を遂行した[2]。そのような地方官の監督行為を補佐する秘書組織として、幕府があった[2]。幕府は地方官が自費で運営する私設組織だった[4]。幕府が生まれたのは、明代の正統年間ごろ、制度疲労により地方官が激務になったためとされる[5]

幕府を主宰する地方官のことを「幕主」、幕府で働く人間のことを「幕友」(「幕僚」「幕客」「幕賓」「内幕」「師爺中国語版」とも)という[4][3][6]。幕友の主な業務内容は、会計・徴税・裁判・文書作成といった事務作業であり[4]、法務専門は「刑名老爺」、財務専門は「銭穀老爺」などとも呼ばれた[3]

幕友は、科挙受験生の知識人層が、食い扶持を稼ぐために務める場合が多かった[4]。幕友は訟師(民の訴訟を助ける業者)とライバル関係にあった[7]。訟師もまた科挙受験生が多く、訟師が幕友に転業した例もあった[7]

幕友のマニュアル本として『幕学挙要』[7]『佐治薬言』などがある[8]

幕友として著名な人物に汪輝祖中国語版がいる[7]。汪輝祖の出身地の紹興府は多くの幕友の輩出地となり「紹興師爺中国語版」とも言われた[7]文人徐渭、歴史家の章学誠も紹興師爺だった[9]

幕主が学問を好む人物の場合は、学術書や地方誌の編纂といった学術事業を幕友が担うこともあった[4]。ときには学術事業専門の幕友がいることもあった[4]清朝考証学の時代には、そのような幕府での学術事業が盛んに行われた。その主な幕主として、徐乾学朱筠阮元畢沅翁方綱盧見曾中国語版沈業富中国語版謝啓昆中国語版秦蕙田中国語版らがいる[1][10][11]。なかでも阮元は、幕府を積極的に活用し『経籍籑詁』106巻、『皇清経解』1400巻、『道光広東通志中国語版』334巻といった大型の編纂物を刊行した[1]

清末の洋務運動期には、張之洞の幕下で辜鴻銘が外国語の翻訳などを担った[1]

関連項目

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参考文献

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  • 水上雅晴「清代の幕府と學術交流 : 許愼の官銜をめぐる議論を中心として」『北海道大学文学研究科紀要』第107巻、北海道大学文学研究科、2002年。 NAID 120000952818https://hdl.handle.net/2115/34025 
  • 川尻文彦・林文孝・水上雅晴 著「第6章 明末清初から近代――新中国への胎動」、湯浅邦弘 編『中国思想基本用語集』ミネルヴァ書房、2020年。ISBN 9784623087365 
  • 水越知 著「コラム 知識人の多様性――幕友,訟師,胥吏」、中西竜也 ; 増田知之 編『よくわかる中国史』ミネルヴァ書房、2023年、162f頁。ISBN 9784623091966 
  • 宮崎市定淸代の胥吏と幕友 : 特に雍正朝を中心として」『東洋史研究』第16巻、第4号、京都大学東洋史研究会、1958年https://doi.org/10.14989/148092 
  • 山口久和立身出世の階梯を諦めた人々 : 章学誠の"紹興師爺"像を中心に」『都市文化研究』第9巻、大阪市立大学大学院文学研究科 : 都市文化研究センター、2007年。 NAID 120006006967https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_111E0000014-9-6 
  • Elman, Benjamin A. (2001) [1984]. From Philosophy to Philology: Intellectual and Social Aspects of Change in Late Imperial China (2 ed.). Univ of California Los Angeles. ISBN 978-1883191047 

脚注

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  1. ^ a b c d e 川尻・林・水上 2020, p. 239-241.
  2. ^ a b c d 水上 2002, p. 67.
  3. ^ a b c 幕友』 - コトバンク
  4. ^ a b c d e f 水上 2002, p. 68.
  5. ^ 夫馬進『訟師の中国史』筑摩書房、2024年。ISBN 978-4480017956 50頁。
  6. ^ 宮崎 1957, p. 7.
  7. ^ a b c d e 水越 2023, p. 162f.
  8. ^ 山口 2007, p. 89.
  9. ^ 山口 2007, p. 88.
  10. ^ 水上 2002, p. 69.
  11. ^ B.A.エルマン 2014.