布袋座火災

1943年に日本の北海道で発生した火災

布袋座火災(ほていざかさい)は、1943年昭和18年)3月6日北海道虻田郡倶知安町にあった映画館「布袋座」で発生した火災である。死者208名を出す惨事となり、単独の火災では日本史上最悪の水準である。

布袋座火災
現場 日本の旗 日本北海道虻田郡倶知安町『布袋座』
発生日 1943年昭和18年)3月6日
19時 (19時10分)
原因 不明
死者 208人
関与者 不明
目的 不明

概要

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3月6日、倶知安町では産業組合を農業会に改組する記念式典を午前中に開催し、午後から記念招待映画会を『布袋座』で開いた。午後の映画会は昼の部と夜の部に分けて行われ、遠方の住民を招いた昼の部の映画会は無事行われ、近隣住民を招いた夜の部へと移った。

午後7時頃に映写室フィルムから出火。当時、町警防団長だった木太善吉はこう証言している。

ちょうど親戚の娘が遊びにきていたので家の女中と一緒に映画に行かせてまもなく、女中が『たいへんです』と顔色をかえて帰ってきた。どうしたのだと聞いたところ火事だとは言うのだが、すっかり興奮して場所も言えない。やがてサイレンがなりようやく布袋座ということがわかった。ただちに本部にかけつけ、消防部長に指揮をとらせて現場に行った時にはもう手がつけられず、家よりも人が心配なので『中に人はいないのか』と聞いたところ『全部出た』と言うものや『半分くらい出た』という人でまちまち、となりの屋根づたいに裏にまわって見ると、かすかに『助けてくれーッ』という悲愴な声が聞こえた。まだ残っていることがわかったので、舞台裏の屋根をつき破らせたが、火は裏までまわっていて物すごい煙と火がその穴から天にのぼった。しばらくして声はまったく聞こえなくなり、建物もくずれおちた。

また、町役場勧業係主任だった成瀬徳右衛門は以下のように証言している。

火災を知らせるサイレンがなり、布袋座が火事だというのですぐ馳けつけた。私が現場についた時には、もうすっかり火がまわっていて、ワンワン虫の鳴くような異ような音が聞こえた。やがて、ムナ木が大きな音をたてて崩れると、中から聞こえていた虫の鳴き声のような悲鳴もパッタリとだえた。

以上の証言から、短時間で火勢が強くなり全焼したことが窺える。しかも、映写室は1階入り口近くにあったことから出口からの脱出は困難で、場内がパニックに陥る中で大勢の客が非常口へと殺到した。しかし、映画館の周辺には大量の積雪があり、非常口も窓も開かない状態だったことから多くの犠牲者を出す結果となった。

開くようにしていた窓も屋根の雪が落ちてふさがり逃げ場がなくなったようだ。火が消えたあと、すぐ死体を運び出した。死体は三ヵ所にわかれていて、右側に七十人位、真中に百十人位、左に二、三十人位かたまって死んでいた。右と真中の人は窒息死、左の人は焼け死んでいた。窓から逃げようとして建物と雪の間にころげ落ち焼け死んだ人も五人くらいあった。とにかく、まともに見ることのできない悲惨さだった。 — 木太警防団長証言

建物が焼け落ちた後で、町役場と警防団が中心となり遺体の収容作業を開始、しかし多くの犠牲者を出したことに加え犠牲者が後から後から出てくる中、検死と身元確認に時間がかかった。

まず焚き出しをすることだと飲食店組合に依頼してにぎり飯を作らせ、役場の提灯を現場前に持っていって、そこを臨時対策本部にし焼けあとから遺体をひきだす作業をはじめた。それがまたたいへんな仕事で、焼け落ちた木を丹念にのぞき一体、一体遺体を引き出し、農業会から持ってきたムシロの上に遺体を並べる。もうないかと思うと回り舞台の下や、井戸の中、窓と雪の山の間などからかくれた遺体がでてきてなかなかハッキリしない。そのうちに、肉親の遺体を見つけた遺族が『これはうちの息子だ、検屍もなにもいるものか、自分の息子の遺体を持って行ってなぜ悪い』と泣く、わめくして大さわぎ。こうして、徹夜で遺体の確認、医師の検屍を終え二百八体の遺体の名前もわかって遺族に引き渡しをはじめたのは七日の昼ころだった。 — 成瀬主任証言

犠牲者の遺体は、8・9両日に町営火葬場付近の畑と六郷の川原で火葬が行われ、12日に倶知安国民学校で合同葬が挙行された。

この火災では、昭和天皇から見舞金が下賜されると共に、道庁北海道農業会北海道新聞が義援金を募り218,585円が集まった。これとは別に学童支援の募金も行われ、10,383円が集まっている。

参考文献

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  • 「倶知安町史」(同編纂委員会、1961年)