巨勢堺麻呂
巨勢 堺麻呂(こせ の さかいまろ/せきまろ)は、奈良時代の公卿。名は関麻呂とも記される。左大臣・巨勢徳多の曾孫。従五位上・巨勢小邑治の子。伯父の中納言・巨勢邑治の養子。官位は従三位・参議。
時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天平宝字5年4月9日(761年5月17日) |
別名 | 関麻呂 |
官位 | 従三位・参議 |
主君 | 聖武天皇→孝謙天皇 |
氏族 | 巨勢氏 |
父母 | 父:巨勢小邑治、養父:巨勢邑治 |
子 | 苗麻呂 |
経歴
編集天平14年(742年)内位の従五位下に叙せられる。早くも翌天平15年(743年)従五位上に昇叙されると、天平19年(747年)正五位下、天平20年(748年)正五位上と聖武朝末にかけて急速に昇進を果たす。またこの間、式部少輔・大輔を歴任している。
天平勝宝元年(749年)7月の孝謙天皇の即位に伴って従四位下に昇叙され、同年8月に皇后宮職が紫微中台に改められると紫微少弼を兼ねる。その後暫く昇進が止まるが、天平勝宝9歳(757年)6月に発生した橘奈良麻呂の乱において、薬の処方を受けるために答本忠節の邸宅を訪ねた際に、大伴古麻呂や小野東人が反乱を計画していること、この計画を知った忠節が右大臣・藤原豊成に報告を行っているとの情報を得て、これを孝謙天皇に密かに上奏する[1]。この功労により7月に入って三階昇進して従三位兼左大弁に叙任され、8月には参議に任ぜられ公卿に列した。
天平宝字2年(758年)淳仁天皇の即位後まもなく官職名の唐風改易が行われたが、大保・藤原恵美押勝らとともに改易の勅を奉じた公卿に名を連ねている[2]。その後、病気のため出仕できなくなり、期限の到来により参議を解任された[3]。天平宝字5年(761年)4月9日薨去。最終官位は散位従三位。
官歴
編集和暦 | 西暦 | 叙位任官など |
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天平14年1月7日 | 742年2月16日 | 従五位下(授内階) |
天平15年5月5日 | 743年6月1日 | 従五位上 |
天平17年9月13日 | 745年10月12日 | 式部少輔 |
天平18年11月5日 | 746年12月21日 | 式部大輔 |
天平19年1月20日 | 747年3月5日 | 正五位下 |
天平20年2月19日 | 748年3月22日 | 正五位上 |
天平勝宝元年7月2日 | 749年8月19日 | 従四位下 |
天平勝宝元年8月10日 | 749年9月25日 | 兼紫微少弼 |
天平勝宝5年4月22日 | 753年5月29日 | 丹波守 |
天平勝宝8歳12月30日 | 757年1月24日 | 孝謙天皇の勅により皇太子(道祖王)と共に東大寺にて梵網経を講じる。 |
天平勝宝9歳5月20日 | 757年6月11日 | 従四位上 |
天平勝宝9歳6月16日 | 757年7月6日 | 下総守 |
天平勝宝9歳7月5日 | 757年7月25日 | 従三位 |
天平勝宝9歳7月9日 | 757年7月29日 | 兼左大弁 |
天平勝宝9歳8月4日 | 757年8月23日 | 参議(兵部卿も兼ねるが任官時期不明) |
天平宝字2年8月25日 | 758年10月1日 | 見参議紫微大弼兼兵部卿侍従下総守 |