工藤晃 (新自由クラブ)
工藤 晃(くどう あきら、1927年3月[1] - 2001年6月18日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。
工藤晃 くどう あきら | |
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生年月日 | 1927年3月 |
出生地 | 日本 大分県 |
没年月日 | 2001年6月18日 |
死没地 | 日本 神奈川県横浜市磯子区 |
出身校 |
慶應義塾大学附属医学専門部卒業 (現・慶應義塾大学医学部) |
前職 | 医師 |
所属政党 |
(新自由クラブ→) 無所属 |
選挙区 | 旧神奈川1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1976年12月10日 - 1979年9月7日 |
経歴
編集1951年、慶應義塾大学附属医学専門部卒業[2]。1961年3月、ウサギの脳代謝の研究(「家兎の脳の諸部分におけるGlutamine酸Glutamine及びγ-amino酪酸の濃度及びそれのPicrotoxinまたはMorphineによる変動」)で慶應義塾大学より医学博士を取得[2][4][5]。同年、南米医療調査団の副団長としてブラジルの奥地に滞在し、医療活動や調査活動に従事した[6]。横浜市内で診療所を経営するかたわら、1973年の赤ちゃんあっせん事件を契機に「実子特例法の立法化を推進する会」を立ち上げ、その代表世話人として活動していた[2][7]。
1976年12月5日に実施された第34回衆議院議員総選挙で、当時の神奈川県第1区 (中選挙区)に、当時結成されたばかりの新自由クラブから初出馬した。結成当時の新自由クラブは、神奈川県選出の現職代議士が2人がおり(2区:田川誠一、5区:河野洋平)、神奈川県は強力な地盤であった。3区には県議経験のあった甘利正、4区には官僚出身の川合武の擁立がきまったが、1区の候補選びは難航し、最後に工藤の擁立が発表された[8]。ロッキード事件を契機に自民党への批判が高まる中で、ブームを起こすことに成功した新自由クラブは、結党時の代議士5人から17人へと躍進し、工藤も10万票を超える得票で、1区でのトップ当選を果たした。
衆議院では、同じく初当選した同姓同名の工藤晃(東京7区:共産党)がいて、「国会史上、はじめての例」として話題となった[9]。
衆議院議員を1期を務めた工藤は、その後の3回の総選挙に、いずれも神奈川1区から出馬したが、新自由クラブの公認を得た第35回(1979年)、第36回(1980年)の総選挙では得票数を初出馬時から半減させて落選し、無所属で立候補した第37回(1983年)の総選挙では7千票あまりで最下位と惨敗した[10]。
外部リンク
編集- 工藤晃 (1961), 家兎の脳の諸部分におけるGlutamine酸Glutamine及びγ-amino酪酸の濃度及びそれのPicrotoxinまたはMorphineによる変動, 国立国会図書館 2012年7月21日閲覧。
- 国立情報学研究所収録論文 国立情報学研究所
脚注
編集- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』224頁。
- ^ a b c d “ひと 「実子特例法の立法化を推進する会」の代表世話人 工藤晃”. 朝日新聞(東京朝刊): p. 5. (1973年6月29日) - 聞蔵IIビジュアルで閲覧
- ^ a b “工藤晃氏死去/元衆院議員”. 四国新聞. (2001年6月10日) 2011年12月25日閲覧。
- ^ 工藤晃 1961
- ^ 博士論文書誌データベース
- ^ “[喜びの新人たち]その横顔=下(連載)”. 読売新聞(朝刊): p. 7. (1976年12月7日) - ヨミダス歴史館で閲覧
- ^ “[3・4人社会の不安]日本の家族第2部=9 もらい子も実子同然に(連載)”. 読売新聞(朝刊): p. 22. (1973年8月1日) - ヨミダス歴史館で閲覧
- ^ “神奈川一区にも 新自由ク公認候補”. 朝日新聞(東京夕刊): p. 2. (1976年10月18日) - 聞蔵IIビジュアルで閲覧
- ^ “新代議士きょうから任期 工藤晃議員が二人 同姓名で同音 事務局、気を使う”. 朝日新聞(東京朝刊): p. 22. (1976年12月10日) - 聞蔵IIビジュアルで閲覧
- ^ “工藤晃(神奈川)”. 国会議員白書. 2011年12月25日閲覧。
- ^ 『現代物故者事典2000~2002』(日外アソシエーツ、2003年)p.219
参考文献
編集- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。