川勝隆忠
川勝 隆忠(かわかつ たかただ)は、江戸時代中期の旗本。隆尚流川勝家の4代当主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元文元年(1736年) |
死没 |
不明 (寛政10年(1798年)4月25日、隠居) |
改名 | 剃山(隠居後の号) |
別名 | 権吉郎、登之助、権之助(通称) |
墓所 | 東京都港区赤坂の法安寺 |
官位 | 布衣(六位) |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家重→家治→家斉 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 |
父:川勝隆盛、母:川勝光隆の娘 養父:川勝隆雄 |
兄弟 |
隆忠、広豊、広峯、女子、 女子 |
妻 | 正室:川勝広當の娘 |
子 |
隆源、隆重、忠順、 忠能、某(徳之助)、女子、女子、 女子、女子、女子、女子 |
生涯
編集元文元年(1736年)、川勝隆盛の長男として江戸に生まれ、後に川勝隆雄の養子となった[1]。宝暦8年(1758年)9月18日、義父隆雄の隠居により、その家督(上野・相模内2,800石)を継いだ。
宝暦9年(1759年)4月5日、江戸城西の丸の小姓組に列した。宝暦11年(1761年)8月3日から本城に勤仕し、宝暦12年(1762年)12月15日から再び西の丸に仕えた。安永4年(1775年)正月11日、使番となり、同年閏12月11日に布衣を着る事を許された。天明元年(1781年)閏5月8日、小普請組支配に転じ、天明8年(1788年)8月16日、退職を許され寄合に列した。寛政10年(1798年)4月25日、63歳で隠居した。家督は嫡男の隆重に譲った。没年不詳。
脚注
編集- ^ 隆尚の嫡男の川勝隆盛が病のため廃嫡され、隆盛の嫡男の川勝隆忠が祖父隆尚の家を継いだ。
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
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