嵐芳三郎 (4代目)

日本の歌舞伎役者

四代目 嵐 芳三郎(よだいめ あらし よしさぶろう、明治5年4月25日1872年5月31日[1]- 大正元年(1912年10月11日[1])は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号豐島屋[1]。俳名に橘丈。本名は寺田 市太郎(てらだ いちたろう)。

よだいめ あらし よしさぶろう
四代目 嵐 芳三郎
屋号 豊島屋[1]
生年月日 1872年5月31日
没年月日 (1912-10-11) 1912年10月11日(40歳没)
本名 寺田市太郎[1]
五代目嵐芳三郎[1][2]

二代目嵐璃珏の孫として大阪島之内に生まれる[1][2]。明治12年 (1879) 三代目嵐芳三郎(後の二代目市川権十郎)の門人となり、祖父がかつて名乗った二代目嵐市太郎を名乗る。四代目嵐芳三郎を襲名後、明治37年 (1904) 頃より東京の舞台にも出るようになり、宮戸座などの小芝居で活躍する。上方色濃厚な技巧派の芸風で、『夏祭浪花鑑』の團七、『桜鍔恨鮫鞘』の八郎兵衛などの上方世話狂言や、『伽羅先代萩』の政岡などの丸本時代物に秀でていた。

墓所は台東区一乗寺にある。戒名は「持教橘芳居士」。

子に五代目嵐芳三郎[1][2]、孫に六代目嵐芳三郎嵐圭史[2]声優麦人女優寺田路恵[1][3]シャンソン歌手広瀬節子がいる[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 嵐 芳三郎とは”. 2024年7月21日閲覧。
  2. ^ a b c d 嵐圭史”. 前進座. 2017年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月22日閲覧。
  3. ^ 自己紹介”. 麦人オフィシャルホームページ. 2024年7月21日閲覧。
  4. ^ 自己紹介”. 麦人オフィシャルホームページ(HPリニューアル前). 2010年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月21日閲覧。