嵐璃徳
嵐 璃徳(あらし りとく、1875年12月31日 - 1945年12月16日[1])は、日本の俳優、歌舞伎役者である[2][3]。本名は井上 徳太郎(いのうえ とくたろう)[2][3]。関西歌舞伎に始まり、牧野省三が監督した日本初の時代劇映画、日本初の剣戟映画に出演、サイレント映画の時代に映画俳優として活躍した[3]。
あらし りとく 嵐 璃徳 | |
---|---|
本名 | 井上 徳太郎 (いのうえ とくたろう) |
生年月日 | 1875年12月31日 |
没年月日 | 1945年12月16日(69歳没) |
出生地 | 日本 大阪府大阪市北堀江町(現在の同府同市西区北堀江) |
死没地 | 連合国軍占領下の日本 大阪府堺市 |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 関西歌舞伎、劇映画(時代劇、サウンド版、サイレント映画) |
活動期間 | 1880年 - 1945年 |
主な作品 | |
『本能寺合戦』 『忍術三勇士』 『丸橋忠弥』 『四谷怪談』 『実録忠臣蔵』 『ある敵討の話』 『羅馬の使者』 『清水次郎長』 |
人物・来歴
編集1875年(明治8年)12月31日、大阪府大阪市北堀江町(現在の同市西区北堀江)の花柳街の料亭を生家に、「井上徳太郎」として生まれる[2][3]。その環境から、幼少より芸事を覚える[2]。
満4歳にして1880年(明治13年)、先代・嵐璃徳に入門[2]、2年後の1882年(明治15年)に大阪・角座で初舞台を踏んだ[2]。満18歳となった1894年(明治27年)、「嵐璃徳」を襲名、関西歌舞伎の若手俳優として名を馳せた[2]。
1908年(明治41年)、京都の芝居小屋・千本座に中村福之助の一座の一員として公演を行ったとき、横田商会が同劇場のオーナーである牧野省三に映画を撮るよう依頼し、璃徳らはこれに出演、映画俳優としてデビューした[3]。これが日本初の時代劇映画『本能寺合戦』であり、同年9月17日に東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)の錦輝館等で公開された。璃徳は同作で森蘭丸を演じ、『ピストル強盗清水定吉』(1899年)の横山運平、同作の中村福之助らとともに、日本初の映画俳優のひとりとなった[3]。
この後、1917年(大正6年)、大阪府下中河内郡小阪村(現在の東大阪市小阪)にあった天然色活動写真(天活)の大阪撮影所が製作した映画『大石山科の別れ』に大石内蔵之助(大石良雄)役で主演している。やがて天活が崩壊し、1920年(大正9年)5月に帝国キネマ演芸(帝キネ)が設立されると、小阪の撮影所は帝キネの撮影所となり、璃徳一座の座付作家・中川紫郎とともに、一座で同社に入社した[3]。入社第1作は、同年に中川が初めて監督した『大江山酒呑童子』である。同年、『忍術三勇士』、『丸橋忠弥』等に主演した[2]。
1931年(昭和6年)、帝国キネマ演芸が新興キネマへ改組され、新興キネマに継続入社した。1935年(昭和10年)には、中川信夫が監督した『恥を知る者』を最後に映画界を引退、舞台に復帰した[3]。270作を超える映画に出演した。
その後、戦時中にかけ老け役を中心に大芝居で活躍するも、「顔もよく品もあって仁も申し分ないのだが、台詞が与太で困るのだそうだ。」[4]との証言があり、いい加減な台詞覚えで周囲を困らせていた。ところが、1945年(昭和20年)、出勤中に近鉄奈良線河内小阪駅で倒れ、病院に搬送[1]。同年12月16日、大阪府堺市の病院で死去した[1]。満69歳没。
おもなフィルモグラフィ
編集- 『大江山酒呑童子』 : 監督中川紫郎、1920年
- 『忍術三勇士』 : 監督中川紫郎、1920年
- 『丸橋忠弥』 : 監督中川紫郎、1920年
- 『石川五右衛門』 : 監督中川紫郎、1921年
- 『四谷怪談』 : 監督中川紫郎、1921年
- 『実録忠臣蔵』 : 監督中川紫郎、1921年
- 『夜討曽我』 : 監督中川紫郎、1923年
- 『ある敵討の話』 : 監督不明、1923年
- 『羅馬の使者』 : 監督中川紫朗(紫郎改め)、1924年
- 『春風怨』 : 監督中川紫朗、1924年
- 『清水次郎長』第一篇・第二篇 : 監督広瀬五郎、1924年
- 『丸橋忠弥』 : 監督長尾史録、1929年
- 『恥を知る者』 : 監督中川信夫、1935年