崔 日知(さい じつち、生没年不詳)は、唐代官僚は子駿[1][2]本貫滑州霊昌県[3][4]

経歴

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崔日用の従兄にあたる[5][2]長安県丞の崔汲の子として生まれた[1]景雲元年(710年)、洛州司馬となった。譙王李重福が東都洛陽に入って反乱を起こすと、群臣はみな避難逃亡したが、日知はひとり民衆や官吏を率いて留守に赴き、屯営と合流して反乱軍を討った。李重福が死去すると、日知は功により銀青光禄大夫の位を加えられ、京兆尹に累進した。不正に財産を蓄えた罪で御史の李如璧に弾劾され、歙県県丞に左遷され、安平県侯に封じられた。まもなく殿中監に転じ、中山郡公に進封された。日知は張説と仲が良く、張説により御史大夫に推薦されたが、玄宗に許されなかった。日知は左羽林大将軍となり、河南尹の崔隠甫が御史大夫となった。崔隠甫はこのため張説と不仲となった。まもなく日知は太常寺卿に転じた。日知は朝廷の官を歴任すること久しく、朝士が参集するたびに、いつも尚書と同列に並んだため、当時の人に「尚書裏行」と号された。開元16年(728年)、潞州大都督府長史として出向した。ほどなく老齢のため致仕した。のちに死去した。は襄といった[6][2]

脚注

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  1. ^ a b 新唐書 1975, p. 2814.
  2. ^ a b c 新唐書 1975, p. 4331.
  3. ^ 旧唐書 1975, p. 3087.
  4. ^ 新唐書 1975, p. 4329.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 3089.
  6. ^ 旧唐書 1975, pp. 3089–3090.

伝記資料

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参考文献

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  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6