島津惟久

日本の江戸時代前期~中期の大名。日向佐土原藩4代藩主島津忠高長男で、佐土原藩6代藩主(30000石→27000石)。従五位下淡路守

島津 惟久(しまづ ただひさ)は、日向国佐土原藩6代藩主。

 
島津惟久
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝4年3月1日1676年4月13日
死没 元文3年9月19日1738年10月31日
改名 万吉丸(幼名)、惟久
別名 又次郎、左京(通称)、忠充
戒名 自得寺殿前淡州刺吏龍淵道水大居士
墓所 宮崎県宮崎市佐土原町の高月院
官位 従五位下淡路守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
日向佐土原藩
氏族 島津氏
父母 父:島津忠高、母:松寿院(竹井満直の娘)
養母:亀井茲政の娘
酒井忠隆の娘島津綱貴の養女
井上氏
久睦、山本雅廬、忠雅久芬久奉就賢、養信院、樺山久寛室ら
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生涯

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延宝3年3月30日1675年4月24日)、第4代藩主・島津忠高の長男として生まれる。父の忠高は延宝4年(1676年)に死去する。わずか2歳の万吉丸が跡を継ぐわけにもいかず、成長するまでは父の従弟である久寿が藩主を務めることとなった。そして元禄3年5月29日1690年7月5日)、16歳に成長した惟久は久寿から家督を譲られた。このとき、幕府の意向もあって久寿に3000石を分与したため、佐土原藩は2万7000石となった。

その後は、家臣団の間での対立や本家の介入を抑えて藩主権力を取り戻し、藩士の教育、そして元禄13年(1700年)には藩財政再建のために家臣の知行削減を行なっている。また、宝永元年(1704年)古刹大光寺古月を招く。享保8年5月29日1723年7月1日)、三男の忠雅に家督を譲って隠居し、元文3年9月19日1738年10月31日)に死去した。享年64。

系譜

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父母

正室、継室

側室

  • 井上氏

子女

脚注

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  1. ^ 島津久武の養子。
  2. ^ 山城守、島津久睦の養子。

関連項目

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