島津忠卿
島津 忠卿(しまづ たださと)は、今和泉島津家第6代当主。薩摩藩主島津吉貴の七男。
時代 | 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 寛保2年2月12日(1742年3月18日)[1] |
死没 | 宝暦4年11月13日(1754年12月26日) |
別名 | 三次郎、因幡 |
戒名 | 寿祥院殿量阿翠大居士[2] |
墓所 | 鹿児島県指宿市今和泉島津家墓地(光台寺跡)[2] |
主君 | 島津継豊 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 島津氏 |
父母 | 父:島津吉貴、於坂(近藤嘉包の娘)[1] |
兄弟 | 継豊、貴儔、忠紀、久亮、貴澄、忠卿、忠温 |
子 | 養子:忠温 |
生涯
編集寛保2年(1742年)、薩摩藩4代藩主島津吉貴の七男として生まれる。当時、吉貴は既に藩主を退き隠居の立場であった。[1]延享元年(1744年)、兄の5代藩主島津継豊の命で、一門和泉家の名跡を相続して、今和泉家を創設する。十文字紋と桐紋使用を許され、揖宿郡の内小牧村、岩本村、西方村、頴娃郷の内池田村、仙田村、利永等を知行地として与えられた。[2]和泉家は、島津家第4代忠宗の次男・忠氏に始まる家で、応永24年(1417年)川辺城の戦いで5代当主直久が戦死して以来長らく絶えていた。
宝暦4年(1754年)11月13日、死去。享年13。家督は、実弟・安之助(忠温)が、養子入りしていた小松家との養子縁組を解消して相続した。後に今和泉家からは、13代将軍家定正室の天璋院を出すこととなる。