島津久徴 (日置家)
江戸時代後期の薩摩藩家老 (1819-1870)
島津 久徴(しまづ ひさなが[1])は、江戸時代後期の薩摩藩家老。島津庶家日置島津家の13代当主。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政2年4月13日(1819年5月6日) |
死没 | 明治3年4月5日(1870年5月5日) |
改名 | 三千千代→益熊→常千代→哲丸(幼名)→久徴 |
別名 | 又六郎(初名)、下総、左衛門(通称) |
墓所 | 鹿児島県日置市の大乗寺 |
主君 | 島津斉興→斉彬→忠義 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 日置島津家 |
父母 | 父:島津久風、母:末川久泰の娘 |
兄弟 | 久徴、赤山靭負、男子、田尻務(田尻種賢)、桂久武 |
妻 | 正室:種子島久道の娘 |
子 | 久明、歳寛、健(島津久宝後室) |
生涯
編集文政2年(1819年)、日置島津家12代当主・島津久風の嫡男として誕生する。
父の久風は27代藩主島津斉興に寵愛されたが、次期藩主をめぐって相続問題が起こると、久徴は斉興が推す庶子の忠教(久光)ではなく嫡子の斉彬を推し、実弟の赤山靭負、田尻務、桂久武らと日置派をつくって、お由羅騒動の際は斉彬の擁立に奔走した。
無事に斉彬が藩主になると重用されて、その主席家老を務めたが、斉彬の死後は島津久宝と対立、主席家老の座より退く。大久保利通らは29代藩主島津忠義へ久徴を主席家老へ戻すよう願い、その甲斐あって再び返り咲いたが、島津久光の公武合体論に反対したため再び退くこととなった。