島原 輝夫(しまばら てるお、1927年2月2日 - 2004年7月12日)は、台湾台中市[1]出身のプロ野球選手外野手)・コーチ解説者

島原 輝夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 中華民国 台湾台中市
生年月日 1927年2月2日
没年月日 (2004-07-12) 2004年7月12日(77歳没)
身長
体重
172 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1950年
初出場 1950年
最終出場 1963年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
派遣歴
コーチ歴

来歴・人物

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台中州立台中商業学校卒業後は国鉄志免鉱業所に勤務し、野球部で名を上げると、1950年南海ホークスへテスト入団[1]

1951年には南海土建へ出向という形で入部し、岡本伊三美森下正夫らと共に社会人でもプレー。当チームは僅か1年で休部となり、その後はホークスに戻る。笠原和夫が不調になった際には代役を務めるなどで出番を増やし[2]1953年にレギュラーとなる。打率もリーグ6位に名を連ね[3]巨人との日本シリーズでは2番・左翼手で先発出場。第1戦で2本の内野安打、第3戦で3安打1打点を打つ。1954年には岡本の外野コンバート、簑原宏の加入などによりレギュラーの座から陥落。以後11シーズンは控え選手となり、1963年に現役を引退[1]

引退後はラジオ関西1964年)・RKB毎日放送の解説者を経て、西鉄→太平洋→クラウン→西武二軍コーチ(1970年 - 1973年)→スカウト(1974年 - 1984年)を務めた。

コーチ時代は伊藤光四郎コーチと共にスイッチヒッターに転向した加藤博一を指導し[4]、スカウト時代は伊東勤を担当[5]

加藤を指導する際、スイッチヒッターの先駆者である柴田勲に電話をしてノウハウを聞き出したほか、休日返上で練習に付き合った[4]

2004年7月12日、肺癌のため福岡市内の病院で死去[6]。享年77。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1950 南海 46 136 129 23 45 9 1 0 56 6 6 0 0 -- 5 -- 2 6 2 .349 .382 .434 .816
1951 55 105 98 9 24 4 2 0 32 7 2 0 0 -- 6 -- 1 6 0 .245 .295 .327 .622
1952 88 183 170 25 54 8 0 1 65 18 11 2 3 -- 10 -- 0 12 0 .318 .356 .382 .738
1953 109 375 354 37 105 13 2 1 125 36 14 6 10 -- 9 -- 2 14 3 .297 .318 .353 .671
1954 114 294 272 25 81 18 5 0 109 27 5 4 5 3 13 -- 1 6 3 .298 .329 .401 .729
1955 95 176 164 7 50 6 1 0 58 23 3 0 3 1 8 0 0 10 1 .305 .335 .354 .689
1956 87 106 93 8 13 1 0 1 17 12 1 2 2 0 11 2 0 11 1 .140 .231 .183 .414
1957 91 236 211 16 50 5 1 0 57 22 0 1 6 1 16 0 2 13 4 .237 .296 .270 .566
1958 71 152 141 10 32 5 2 0 41 10 2 3 2 1 7 4 1 13 2 .227 .267 .291 .557
1959 70 87 76 8 24 3 1 0 29 8 1 0 2 2 6 1 1 8 4 .316 .365 .382 .746
1960 46 68 63 2 13 3 0 0 16 3 0 0 1 0 3 0 1 6 3 .206 .254 .254 .508
1961 88 141 129 4 34 5 1 0 41 15 0 1 0 2 10 1 0 14 4 .264 .312 .318 .630
1962 72 69 67 1 18 1 0 0 19 12 0 0 0 0 2 1 0 9 0 .269 .290 .284 .573
1963 64 64 54 0 11 1 0 0 12 7 0 0 1 2 7 0 0 5 1 .204 .286 .222 .508
通算:14年 1096 2192 2021 175 554 82 16 3 677 206 45 19 35 12 113 9 11 133 28 .274 .314 .335 .649

記録

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  • 1000試合出場:1962年7月29日 ※史上74人目

背番号

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  • 7 (1950年 - 1963年)
  • 61 (1970年 - 1972年)
  • 72 (1973年)

脚注

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  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、273ページ
  2. ^ “ホークスの歩み(1952年)”. 福岡ソフトバンクホークス. https://www.softbankhawks.co.jp/ocms/pc/team/history/vol03.html 2020年3月28日閲覧。 
  3. ^ “ホークスの歩み(1953年)”. 福岡ソフトバンクホークス. https://www.softbankhawks.co.jp/ocms/pc/team/history/vol04.html 2020年3月31日閲覧。 
  4. ^ a b プロ初安打まで8年…加藤博一“喫茶店のアルバイト”で食いつないだ“二軍の首位打者”【逆転野球人生】
  5. ^ 秋山、伊東、工藤を獲得したドラフト戦略は「裏工作」と揶揄された
  6. ^ “島原輝夫氏死去 元プロ野球南海外野手”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年7月12日). https://web.archive.org/web/20150221144325/http://www.47news.jp/CN/200407/CN2004071201004971.html 2015年2月21日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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