岸田 忠氏(きしだ ただうじ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名大和国岸田領主。実名は晴澄(はるずみ)とも[1]

 
岸田 忠氏
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 元和元年12月2日1616年1月20日
別名 晴澄
墓所 光林寺
官位 伯耆守
主君 筒井順慶定次豊臣秀長秀保秀吉秀頼
右近
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生涯

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はじめ大和国の戦国大名筒井順慶に仕え、2,000石を領したが、筒井家が筒井定次の代に伊賀国へ転封となると、大和を治めた豊臣秀長や養子・秀保に仕えた。

秀保の死後[注釈 1]豊臣秀吉の家臣となり、大和山辺郡岸田(現在の奈良県天理市岸田町付近)において1万石を賜る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成方に属し、8月11日に東軍を撹乱するために三河国藤川に放火を試みるが失敗し、町民に武装を解除され、家臣の岸田弥右衛門が処刑された[2]。9月15日の関ヶ原本戦では、豊臣秀頼配下の黄母衣衆として織田信高伊藤盛正らと小西行長の陣営に加わり戦ったが敗れたため、改易となり、慶長6年(1601年)11月に陸奥国盛岡藩主・南部利直に預けられた。

元和元年(1616年)12月2日死去[1]。享年70余。寺林(現在の花巻市石鳥谷町中寺林)の光林寺に葬られた[3]

子孫

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子の右近も、父と同様に南部家預けになっている[3]

正保2年(1645年)に定められた盛岡藩の正月儀礼において、岸田右近は宮部兵蔵(岸田家同様、関ヶ原合戦後に南部家に預けられた宮部長熙の子)とともに、高知たかち(盛岡藩の重臣家)と同格で参列することとされた[4]。岸田右近は寛文元年(1662年)に嗣子なく没し、岸田家は断絶した[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は、秀吉に仕えた年を文禄3年(1594年)とする[1]。秀保の没年は文禄4年(1595年)とされるが、文禄3年(1594年)説もある。

出典

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  1. ^ a b c 岸田晴澄”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2024年9月29日閲覧。
  2. ^ 須田茂『徳川大名改易録』(崙書房出版、1998年)101頁
  3. ^ a b c 慶長五年 利直代より著者伊藤祐清の死去の時まで”. 近世こもんじょ館. 2024年9月29日閲覧。
  4. ^ 16 重直公正保中年頭御礼式仰せ出さること 「篤焉家訓」”. 近世こもんじょ館. 2024年9月29日閲覧。