岩田 久利(いわた ひさとし、1925年12月18日 - 1994年1月8日)は、日本のガラス工芸家。ガラス工芸家二代目岩田藤七の長男。母・くにの父は、彫刻家の竹内久一。妻は、ガラス工芸家の岩田糸子。長女は、イワタルリ。次女は、岩田マリ。

経歴

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ガラス工芸家岩田藤七の長男として東京府に生まれる。東京美術学校工芸部図案科に学び、在学中の同24年第5回日展に「硝子ぶどうの鉢」で初入選し以後も日展に出品を続ける。同26年東京美術学校を卒業。制作のかたわら、東京工業大学でガラスの組成を研究する。同30年第11回日展に「藻」を出品して特選、同31年第12回同展には「萌生」を出品して二年連続特選となった。同30年より光風会にも出品。同33年日展会員となり、同年からたびたび日展審査員をもつとめる。同47年日本ガラス工芸会を設立し、同年より同52年までその初代会長をつとめる。同51年第8回改組日展に「孔雀文大皿」を出品して文部大臣賞を受賞。同57年毎日芸術賞を受賞し、同58年「聖華」で日本芸術院賞を受賞した。

父の創立になる岩田工芸硝子を継ぎ、社長をつとめつつ制作を続け、斬新で優美な作風を示した。宙吹きガラスを得意とし、国際的にも高い評価を得た。

墓所は、日蓮宗威光山法明寺 (豊島区)、戒名は、輝光院能持日久居士。

略歴

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  • 1925年 [大正14年] 東京新宿弁天町に二代目岩田藤七の長男として生まれる。
  • 1939年 [昭和14年] 小寺健吉画塾に学ぶ。
  • 1941年 [昭和16年] 廣川松五郎に師事、デザインを学ぶ。伊藤熹朔に師事。
  • 1942年 [昭和17年] 和田三造に師事、デッサン、図案を学ぶ。春台美術・本郷研究所に通う。
  • 1944年 [昭和19年] 東京美術学校工芸部図案科入学。
  • 1946年 [昭和21年] 外山卯三郎に西洋美術史およびバウハウス・デザイン運動の理論につき個人教授を受ける。
  • 1947年 [昭和22年] 阿部俊夫(東芝電気ガラス研究所室長)にガラスの科学的基礎を学ぶ。
  • 1948年 [昭和23年] 東京工業大学窯業科ガラス研究室研究生、森谷太郎教授にガラス組成の指導を受ける。株式会社岩田硝子製造所入社。
  • 1949年 [昭和24年] 第5回日展初出品。初入選、以後毎年出品、連続入選。糸子(旧三井物産社長山本正男長女)と結婚。
  • 1950年 [昭和25年] 東京工業大学窯業科ガラス研究室研修修了。
  • 1951年 [昭和26年] 東京美術学校工芸部図案科卒業。
  • 1953年 [昭和28年] 岩田工芸硝子株式会社に社名変更、代表取締役社長となる。
  • 1955年 [昭和30年] 第11回日展特選受賞。国際工芸美術家協会設立、初代理事長。カリフォルニア州博覧会・ブラッセル博覧会にて金賞受賞。
  • 1956年 [昭和31年] 第12回日展特選受賞。
  • 1957年 [昭和32年] 財団法人日本デザイン協議会理事。財団法人世界デザイン会議日本運営設立準備委員。
  • 1959年 [昭和34年] 第2回日展審査員。以後数回。
  • 1963年 [昭和38年] 武蔵野美術大学講師。窯業協会理事(~1967)
  • 1966年 [昭和41年] 第7回国際ガラス会議年会参加。
  • 1968年 [昭和43年] 日本硝子製品工業会評議員。
  • 1971年 [昭和46年] 初の個展開催。
  • 1972年 [昭和47年] 日本ガラス工芸協会創立、初代会長。日展評議員
  • 1973年 [昭和48年] 社団法人窯業協会理事(工芸担当)。
  • 1974年 [昭和49年] 現代工芸美術家協会評議員。
  • 1975年 [昭和50年] 第1回「資生堂現代工藝展」に出品。以後毎回出品。岩田工芸硝子株式会社社長を糸子に譲り、ガラス制作に専念する。
  • 1976年 [昭和51年] 第8回日展文部大臣賞受賞。労働省より技能者表彰審査員委嘱される。
  • 1979年 [昭和54年] 紺綬褒章受章。
  • 1981年 [昭和56年] ホテルニューオータニ鶴の間にガラスによる大装飾壁面製作。
  • 1982年 [昭和57年] 第23回毎日芸術賞受賞。第38回日本芸術院賞受賞
  • 1986年 [昭和61年] ニューヨークメトロポリタン美術館20世紀Design and Architecture部門に藤七・久利・糸子作品が永久収蔵される。
  • 1993年 [平成5年] 最後の個展開催。日展及び資生堂現代工藝展に最終出品。
  • 1994年 [平成6年] 1月8日死去。68歳。

参考文献

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  • 『日本美術年鑑』(平成7年版)
  • 岩田家のガラス芸術 [1] 2009

外部リンク

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