岩川友太郎

日本の教育者、動物学者

岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日1855年1月25日[1] - 昭和8年(1933年5月2日[2])は日本の教育者、動物学者。分類学的手法に基づく目録を、日本で初めて上梓したことでも知られる。東京帝国大学卒。[3]

岩川 友太郎
生誕 1855年1月25日安政元年12月8日
日本の旗 日本
死没 (1933-05-02) 1933年5月2日(78歳没)
国籍 日本の旗 日本
研究分野 動物学
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

来歴

編集

陸奥国弘前(現青森県弘前市[2] にて、父豊吉、母いちの長男として生まれる[4]。豊吉は貧しい表具師であったが、祖父は国文学者として津軽藩校で教鞭を執っていた[4]。生活苦のため小僧に出されたものの、叔父岩川藤兵衛の伝手を頼り、15歳で藩の海軍局へ入局、機関学を学ぶこととなる[4]

藩校で英語を学んだ後、当時新設されたばかりの東奥義塾1872年11月27日創設)にて英語教師に就く[4]宣教師として弘前に赴任したチャールズ・ウォルフ東北地方初の米人英語教師でもある)から英語の指導を受けるが、語学力向上を目的に東京外国語学校(現東京外国語大学)に進学[4]。同校卒業後は開成学校及び東京大学にも進学を果たす[4]

東大では生涯の恩師となる、大森貝塚発見で名高いエドワード・S・モースに出会い[4]、モースの直弟子となる[3]。モースは日本に初めて生物学を導入しているが、後任のチャールズ・オーティス・ホイットマンからも厚き薫陶を受け、貝類学の研究に励む[4]

1881年東大理学部生物学科を卒業。同学科初の卒業生であった[3]

東京高等師範学校(現筑波大学)を経て[4]1898年には女子高等師範学校(現お茶の水女子大学教授に着任[2]、日本の貝類研究の草分け的存在となった[4]。女子高師では動物、生理および衛生の授業を担当、後に同校の名誉教授に就く[5]

1933年5月2日死去。[2]

親族

編集

岩川家は弘前藩の馬廻を務める士族であったが、家督の問題で没落した。

祖父・神 文右衛門(士族、弘前藩藩校稽古館校長)

父・岩川 豊吉(弘前藩士族)

母・悗子(盛美園で有名な大地主清藤家出身)

妻・さた(1871年<明治4年>生まれ、中村力養母)

叔父・岩川 藤兵衛(弘前藩士族)

長男・信夫(1897年<明治30年>生まれ、専修大学卒、安田銀行員)

次男・貫二(1902年<明治35年>生まれ)

三男・徹夫(1905年<明治38年>生まれ、明治大学法科卒)

長女・ゑい(1888年<明治21年>生まれ、長野県士族、陸軍士官学校卒、折井衡中佐嫁)

二女・清子(1892年<明治25年>生まれ、山梨県、三菱製鋼会社員、砂田索平嫁)

四女・すみ(1900年<明治33年>生まれ、茨城県、海軍兵学校卒、海軍少将皇族附武官浅野新平嫁)

六女・悦子(1910年<明治43年>生まれ、三女力の養子)

孫・折井一(1920年<明治43年>生まれ、東京帝国大学工学部卒、陸軍少佐

孫・浅野博(1930年<昭和5年>生まれ、東京高等師範学校卒、筑波大学名誉教授

岳父・折井房之(長野県士族、教育者、遠縁に画家の武井武雄

遠縁・清藤盛美(尾上銀行取締役)

栄典

編集
位階
勲章等

エピソード

編集
  • ゴキブリ江戸時代より「ゴキカブリ」(御器かぶり)とも呼ばれていたが、岩川も編纂に加わった『生物学語彙』(1884年刊行)では、ゴキカブリを意味する「蜚蠊」という漢語に一ヶ所誤って「ゴキブリ」というルビが振られてしまう。以後この和名が各種出版物にも転載されることにより、定着したという[9]

主著

編集

脚注

編集
  1. ^ 磯野直秀『モースその日その日: ある御雇教師と近代日本』(有隣堂、1987年)
  2. ^ a b c d 岩川友太郎 コトバンク
  3. ^ a b c 岩川友太郎
  4. ^ a b c d e f g h i j 岩川友太郎 広瀬院長の弘前ブログ
  5. ^ 卒業記念写真帖(大正8年3月) お茶の水女子大学デジタルアーカイブ
  6. ^ 『官報』第5210号「叙任及辞令」1900年11月12日。
  7. ^ 『官報』第1947号「叙任及辞令」大正8年1月31日。
  8. ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
  9. ^ 北嶋廣敏『雑学帝王500』

関連項目

編集