岩崎孫八
陸軍中佐
岩崎 孫八(いわさき まごはち、1887年(明治20年)10月31日[1][2][3][4] - 没年不詳[3])は、陸軍中佐。昭和時代前期の政治家。宮城県石巻市長。
経歴・人物
編集仙台市で[1]岩崎亨平の4男として生まれた[4]。1904年(明治37年)宮城県立第一中学校(現宮城県仙台第一高等学校)を卒業[4]。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月、陸軍歩兵少尉任官[5]。シベリア出兵に出征した[4]。1930年(昭和5年)陸軍中佐に進む[1]。予備役となり、石巻市会議員、県方面委員、石巻市協和会会長、郷軍石巻連合分会長などを歴任する[1]。
1938年(昭和13年)12月26日に石巻市長に就任[2]。在任中は石巻市立実業女学校の開校。東北振興パルプ石巻工場の操業、保健所の開設、市民病院の開院があった[2]。一方で戦時体制は強化され、翼賛市常会の設置[6]、下部組織としての町内会、隣組の結成[6]、警防団が組織され[7]、岩崎は常に戦闘訓練の先頭に立った[6]。
1942年(昭和17年)市長の任期満了を迎え、市長を元留守第2師団長で陸軍中将の高木義人(岩崎と陸士同期)を推す動きがあり[注 1]、市会内部で対立が起きた。高木は市長就任を辞退したため、岩崎が市長に再任された[8][9]。2期目の1943年(昭和18年)には市の行政機構の再編があった[10]。しかし、戦況は悪化し、1945年(昭和20年)石巻も空襲を受け、死者を出した[2]。やがて終戦を迎え、市民生活の再建が大きな課題となった[11]。翌1946年(昭和21年)公職追放を前に3月に市長を辞職した[12]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 高木は現職の衆議院議員でもあったが、戦前は衆議院議員でも市長を兼務することができた。
出典
編集- ^ a b c d 第14版『大衆人事録』北海道 奥羽 関東 中部篇、宮城の項6頁。
- ^ a b c d 『日本の歴代市長』第1巻、335頁。
- ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』、36頁。
- ^ a b c d 『宮城県名士寳鑑』宮城県名士寳鑑発刊事務所、1940年、70-71頁。
- ^ 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1990年、235頁。外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年、238頁。
- ^ a b c 『石巻の大正・昭和・平成-ふる里と歩んだ石巻日日新聞の100年』126頁。
- ^ 『石巻の大正・昭和・平成-ふる里と歩んだ石巻日日新聞の100年』127頁。
- ^ 『石巻市史』第3巻、200頁。
- ^ 『石巻の大正・昭和・平成-ふる里と歩んだ石巻日日新聞の100年』130頁。
- ^ 『石巻市史』第3巻、201頁。
- ^ 『石巻の大正・昭和・平成-ふる里と歩んだ石巻日日新聞の100年』154頁。
- ^ 『石巻の大正・昭和・平成-ふる里と歩んだ石巻日日新聞の100年』165頁。
参考文献
編集- 『宮城県名士寳鑑』宮城県名士寳鑑発刊事務所、1940年。
- 第14版『大衆人事録』北海道 奥羽 関東 中部篇、帝国秘密探偵社、1943年。
- 『石巻市史』第3巻、石巻市史編纂委員会、1959年。
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『石巻の大正・昭和・平成-ふる里と歩んだ石巻日日新聞の100年』編集・発行 - 石巻日日新聞社、2014年。
- 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。
公職 | ||
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先代 佐藤真平 |
宮城県石巻市長 1938年 - 1946年 |
次代 堺武志 |