岩富藩
岩富藩(いわとみはん)は、下総国印旛郡の岩富城(現在の千葉県佐倉市岩富町付近)を居城として、徳川家康の関東入国から江戸時代初期まで存在した藩。小田原北条氏一族(玉縄北条氏)の北条氏勝が1万石を与えられて成立したが、1613年に氏重が転出し廃藩となった。
歴史
編集岩富は元は「弥富」と呼ばれ、千葉氏の家老原氏の勢力圏であった。原氏は本拠地を生実城(小弓城)に置き、里見氏の圧迫により臼井城に移ったが、その後も生実城は対里見氏戦の前線基地であった。生実と臼井のほぼ中間に位置した岩富(弥富)は中継基地として重要な存在であり、原氏の一族である弥富原氏が居城としていた。
藩主となった北条氏勝は、戦国大名小田原北条氏の一族である。氏勝の祖父は「地黄八幡」として知られる勇将・北条綱成で、代々相模国玉縄城主[注釈 2]を務め、一門として重きをなした。氏勝は、天正18年(1590年)の小田原征伐の際に山中城の守将の一人として派遣されたが、3月29日の山中城落城後に居城の玉縄城に撤収して蟄居した[1]。この行動は、小田原城に籠城する北条氏政らの疑心を招いたとされ、憤激した氏勝は玉縄城で籠城して抗戦の構えを見せた[1]。徳川家康は、本多忠勝・榊原康政・井伊直政らを派遣して氏勝に降伏するよう説得を試み、氏勝は4月28日、徳川家康に降伏した[1]。氏勝は家康の麾下に属し、浅野長政・木村重茲(重高)・本多忠勝勢を先導し、依然として抗戦を続ける関東諸城の平定に協力した[1][2]。
『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、天正18年(1590年)の家康の関東入国に際し、氏勝は下総国岩富に1万石を与えられるとともに、譜代の列に加えられた[1]。ここに岩富藩が立藩したと見なされる。天正19年(1591年)の検地帳が残されており、房総において太閤検地を最も早く行った史料となっている[2]。その後、氏勝は実子の北条氏明に家督を譲ったと見られるが[2][注釈 3]、慶長元年(1596年)頃に氏明は没し、氏勝が当主に復帰したようである[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際して、氏勝は三河国岡崎城を田中吉政から受け取って在番し、次いで尾張国犬山城を守備する功を挙げた[3]。関ヶ原の戦いのあと2年間は丹波亀山城で城番を務め、その後も松平忠頼とともに岡崎・犬山・丹波亀山の城番を務めたという[4]。ただし、関ヶ原の戦い頃から氏勝は体調を崩したともされ、養嗣子(実弟)の北条繁広が代理を務めたともいう[2][注釈 4]。慶長16年(1611年)3月に氏勝は岩富において死去した[4]。
氏勝の跡を継いだのは、慶長16年(1611年)に氏勝の養嗣子となった北条氏重であった[4][注釈 5]。氏重は保科正直の四男で、母は多劫姫(徳川家康の異父妹)であり[4][注釈 6]、すなわち氏重は家康の甥にあたる。氏重は慶長18年(1613年)冬、下野富田藩に移封となったため[4]、岩富藩は廃藩となった[6]。
歴代藩主
編集- 北条家
譜代。1万石。
領地
編集城と城下町
編集現代の岩富城付近には「岩富」と「岩富町」という大字があるが、これは近世の岩富村・岩富町に由来する[7][8][9]。中世以来の岩富城の城下町が「岩富村」[10]から区別されて「岩富町」となったとされ[11][12]、岩富町は江戸時代に在郷町として栄えた[11]。岩富藩廃藩後、岩富村・岩富町はおおむね佐倉藩領とされ、幕末・明治維新期を迎えている[13][10][11]。
岩富町字本宿の八幡神社は、慶長14年(1609年)に北条氏勝が鎌倉・鶴岡八幡宮の神鏡を模鋳した鏡を祀ったのが始まりと伝えられる[14]。
なお、岩富村・岩富町を含む諸村は、明治期の町村制施行に際して「弥富村」を編成した[7]。村名として「弥富」が採用されたのは、この地域一帯が弥富郷に属していたと伝えられていたことによる[7]。弥富村の村役場は大字岩富町に置かれた[7][9]。1954年(昭和29年)の昭和の大合併に伴い、弥富村は佐倉市に編入された[7]。
備考
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 玉縄城は「甘縄城」とも記される。
- ^ 『寛政譜』には氏明の記載がない。
- ^ 『寛政譜』の繁広の項目には、「氏勝とおなじく」松平忠頼とともに岡崎・犬山・丹波亀山の城番を務めたことが記されている[5]。
- ^ 氏勝は実子の北条氏明を失ったあと[2]、実弟の北条繁広を養嗣子としていた[1](『寛政譜』では家康への臣従時にすでに繁広が養嗣子であったように記している[1])。氏重が没するに際して、繁広と不仲であった堀内靫負という家臣が、氏重に跡を継がせるよう画策したものという[5]。繁広の子で軍学者としても知られる北条氏長(正房)はのちに大身旗本となった。
- ^ 氏勝・繁広とともに城番を務めた松平忠頼は、松平忠吉と多劫姫の間の子(多劫姫は松平忠吉の没後に保科正直に再嫁した)である。氏重は異父兄の忠頼のもとで成長した[4]。
- ^ 北条氏勝は宝金剛寺に寺領を寄進したともされており、直弥村は北条氏勝の領地であったとも考えられる[17]。
- ^ 宝暦元年(1751年)に書かれた『宝金剛寺由来記』には、慶長14年(1609年)に氏勝が謀反を企んでいるという讒言を受けて立腹した「太閤」が「石田治部」を岩富に派遣、氏勝は坂戸(佐倉市坂戸)で大いに戦ったあと、宝金剛寺に来て切腹したという(史実に照らしてまず年代と人物に齟齬がある)物語が記されているという[19]。
出典
編集- ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第五百六「北条」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.694。
- ^ a b c d e f g h 「~戦国と泰平のあいだ~ 岩富城主・北条氏勝と佐倉」『こうほう佐倉』第1381号、佐倉市、2022年5月15日、3頁、2022年11月6日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五百六「北条」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』pp.694-695。
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第五百六「北条」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.695。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第五百七「北条」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.696。
- ^ “岩富藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年11月6日閲覧。
- ^ a b c d e “弥富村(近代)”. 角川日本地名大辞典. 2022年11月6日閲覧。
- ^ “岩富(近代)”. 角川日本地名大辞典. 2022年11月6日閲覧。
- ^ a b “岩富町(近代)”. 角川日本地名大辞典. 2022年11月6日閲覧。
- ^ a b “岩富村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年11月6日閲覧。
- ^ a b c “岩富町(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年11月6日閲覧。
- ^ 『千葉県印旛郡誌 巻一巻二』, p. 381.
- ^ 『千葉県印旛郡誌 巻一巻二』, p. 380.
- ^ 『千葉県印旛郡誌 巻一巻二』, p. 385.
- ^ 『千葉県印旛郡誌 巻三至五』, p. 126.
- ^ a b “宝金剛寺(ほうこんごうじ)と北条氏勝(ほうじょううじかつ)の墓”. 佐倉市. 2022年11月6日閲覧。
- ^ 『千葉県印旛郡誌 巻三至五』, p. 107.
- ^ 『千葉県印旛郡誌 巻三至五』, p. 114.
- ^ 『千葉県印旛郡誌 巻三至五』, p. 128.
- ^ “佐倉市の文化財-工芸品”. 佐倉市. 2022年11月6日閲覧。