岩倉宮
鎌倉時代初期に存在した宮家
岩倉宮(いわくらのみや)は、日本の皇室における宮号の一つ。鎌倉時代初期に存在した。
岩倉宮家 | |
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家祖 |
岩倉宮忠成王 (順徳天皇の第 5皇子) |
種別 | 皇族(宮家) |
出身地 | 佐渡国 |
主な根拠地 | 山城国 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概略
編集順徳天皇の皇子・忠成王の御称号として創設された。忠成王は、幼少期は六条宮の称号を名乗り、四条天皇の夭折時など、一時は次期天皇と目されていたが、宮騒動において自らを皇位に担ぐ陰謀が露見して失脚。その後、寛元5年(1247年)、元服と前後して洛外の岩倉に移住し、「岩倉宮」また「広御所宮」と称号を改める[1][2]。
更に、その孫の忠房親王は、一旦臣籍降下して権中納言まで昇進した後、皇籍に復帰するという経歴をたどっている。
岩倉宮の宮号が存在した時代は、個々の皇族が諱にかわって名乗る「御称号」が、所領とともに称号を相続する「宮号」へと変わる過渡期にあり、「岩倉宮」の称号が忠成王の子孫に、不完全ながら引き継がれていると言える。宮内庁の資料『皇室制度資料』では岩倉宮を宮家の一つとすることに対して慎重な見解を取っている。
由来
編集「岩倉」「広御所」とも宮号の由来は居所か領地に縁があると推測されるのみで、詳細は未詳である。