山高親之
山高 親之(やまたか ちかゆき)は、戦国時代の甲斐国の武将。武田氏の家臣。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正6年(1509年) |
死没 | 永禄9年6月18日(1566年7月15日)[1] |
戒名 | 是快[1] |
墓所 | 高龍寺(山梨県北杜市武川町山高)[1] |
官位 | 石見守[2][1] |
主君 | 武田信虎、信玄 |
氏族 | 武田氏支流山高氏 |
父母 | 父:山高信之[1] |
子 | 信親、蔦木氏の妻、孫兵衛、八左衛門、右近介[1] |
概要
編集山高氏は甲斐武田氏の庶流。甲斐国巨摩郡山高郷(現・山梨県北杜市武川町山高)を領した。親之は武川衆十二騎でも随一と称されたという[1]。
武田信虎・信玄の二代に仕え、後に信玄の弟・武田信繁配下となる。永禄4年(1561年)、第四次川中島の戦いに出陣するが、信繁はこの合戦で討死してしまう。そこで親之はその首級を敵より奪還し、信玄の下へ帰還した。信玄はこの武功を賞し、信繁の葬儀の奉行を親之に命じた[2][1]。
脚注
編集参考文献
編集- 信濃史料刊行会 編『信濃史料』 補遺巻上、信濃史料刊行会、1969年。
- 『新訂寛政重修諸家譜』 3巻、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0207-9。