山陽クラウンズ
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2022年9月) |
山陽クラウンズ(さんようクラウンズ)は、かつて存在した日本のプロ野球球団である。
山陽クラウンズ | |
---|---|
Sanyo Crowns | |
会社名 | 山陽電鉄野球部・山陽クラウンズ |
創設 | 1950年 |
解散 | 1952年 |
所属リーグ | |
関西ファーム野球リーグ | |
歴代チーム名 | |
山陽クラウンズ(1950年 - 1952年) | |
本拠地 | |
兵庫県立明石公園第一野球場(解散時) | |
収容人員 | 不明 |
兵庫県(1950年 - 1952年) | |
永久欠番 | |
なし | |
獲得タイトル | |
リーグ年間優勝(0回) | |
なし | |
成績(タイトル以外) | |
球団組織 | |
オーナー | 不明(解散時) |
運営母体 | 山陽電気鉄道(解散時) |
監督 | 加藤吉兵衛=総監督、近藤金光(解散時) |
概要
編集山陽クラウンズは山陽電気鉄道を母体として1950年5月[1][注釈 1]に結成。史上初の一軍にあたるチームを持たない独立二軍チームだった[注釈 2]。
当時の総監督は加藤吉兵衛、監督は近藤金光。本拠地は明石球場。練習場としては明石球場と加古川市の浜の宮運動場を使用した[2]。
1950年には11月に開催された「第1回マイナーチーム選手権大会」に出場[3]。1952年春にはウエスタン・リーグの前身となる関西ファーム・リーグに参加したが、経営が成り立たなかったとして同年10月には解散した。
運営方法
編集山陽クラウンズが自前で集めた選手[1]の他に、1950年は二軍を持たなかった西日本パイレーツから4名の選手を預かっていた[1]。1951年5月に大洋ホエールズの二軍が渡辺大陸総監督の退団に伴い解散した[2]あとは、大洋から山陽へ二軍の選手の育成が委託された[2]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 「山陽電気鉄道百年史」では、1950年9月結成とされていた。
- ^ 2024年よりくふうハヤテベンチャーズ静岡、オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの2チームが二軍にのみ新規参入している。
出典
編集参考文献
編集- 松井正「山陽クラウンズを追って 浮田逸郎元エースの証言」(『野球雲』第8号、38-45ページ、2018年、啓文社書房)