山谷親平
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山谷 親平(やまたに しんぺい、1922年〈大正11年〉11月4日 - 1984年〈昭和59年〉11月28日[1])は、日本の評論家・ラジオパーソナリティ。福井県出身。日本において実質的な意味で初のラジオパーソナリティであったと言われている。
やまたに しんぺい 山谷 親平 | |
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生誕 |
1922年11月4日 福井県坂井郡芦原町(現在のあわら市) |
死没 |
1984年11月28日(62歳没) 東京都 |
死因 | 白血病 |
出身校 | 日本大学法文学部 |
職業 | 評論家・ラジオパーソナリティ |
子供 | 山谷えり子 |
栄誉 | 放送文化基金・個人賞(1978年) |
来歴・人物
編集実母の実家のあった現在の福井県あわら市(旧・坂井郡芦原町)芦原温泉で生まれる。東京で育ち、日本大学法文学部に進学するが学徒動員となる。1944年(昭和19年)8月、志願して加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)に加わり、3度撃墜されたが生還した[2]。
戦後は産経新聞政治部記者、福井新聞政経部長を経て[3]、1953年(昭和28年)に福井放送に入社。放送部長(現代で言うところの編成部長的役職であったといわれる)に就き、56年6月1日から当時としては画期的だった朝の生番組『お早う皆さん』を開始し人気を博した。番組は常務取締役編成局長に昇進後も続いた。
しかし、1963年(昭和38年)11月の第30回衆議院議員総選挙・福井県全県区から立候補するため番組も終了となった。この選挙で山谷は落選し、無職となったことから自宅を売り払い、家族を連れて東京に移住。地元・福井に本社を置く福井ビニール(現・フクビ化学工業)の東京営業所長となった。
ニッポン放送パーソナリティに
編集1965年(昭和40年)にはニッポン放送で『テレフォン人生相談』のパーソナリティとなり[3]、「絶望は愚か者の結論なりと申します」の名言などで人気を博す。翌66年からは朝のワイド番組『トゥデイ』のパーソナリティに就任。同番組はその後紆余曲折を経て、73年に『山谷親平のお早ようニッポン』となり、長らくニッポン放送の朝の顔として親しまれた。
だが、1984年(昭和59年)11月2日放送分から『お早ようニッポン』を体調不良で休演し、11月28日、入院先の聖路加国際病院で白血病のため死去。62歳没[2]。葬儀・告別式はニッポン放送葬として営まれ、石田達郎同社社長が葬儀委員長を務めた[3]。
結果的に復帰する事のなかった『お早ようニッポン』は、翌年春の改編まで複数人を代役に立ててつなぎ、春からはそれまで8時台を担当していた高嶋ひでたけが『高嶋ひでたけのお早よう!中年探偵団』として『お早ようニッポン』の枠も担当する事となった。
メディア出演
編集ラジオ
編集- お早う皆さん(福井放送)
- テレフォン人生相談(ニッポン放送)
- トゥディ(ニッポン放送)
- 空からおはよう(ニッポン放送)
- 山谷親平ショウ(ニッポン放送)
- 山谷親平のお早ようニッポン(ニッポン放送)
テレビ
編集著書
編集- 『愛してふと迷ったときに―あなたの愛と性の悩みにこたえます』(海潮社)ハローブックス、1970年。
- 『女性心理に強くなる法―女ごころのウソ・ホント100のポイント』ダイヤモンド社、1975年。
- 『山谷親平の人生相談―いっしょに悩み,いっしょに考える本』産経新聞社、1975年。
- 『大人の情景』永立出版、1976年6月25日。
- 『朝からいいたい放題―お早ようニッポン傑作選』サンケイ出版、1983年6月。ISBN 978-4383022484
脚注
編集参考文献
編集- 『世界大百科年鑑 1985』平凡社、1985年4月。ISBN 978-4582085068
- 『飛行第64戰隊史 栄光の隼戰斗隊』飛行第64戦隊六四会、1993年6月。