山村蘇門
山村 蘇門(やまむら そもん)、蘇門は号であり、本名は山村 良由 (やまむら たかよし)である。尾張藩の木曾代官九代。隠居後は尾張藩の年寄役(家老職)。漢詩人としても著名[2]である。
時代 | 江戸時代中期~後期 |
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生誕 | 寛保2年3月6日〈1742年4月10日〉 |
死没 | 文政6年1月16日〈1823年2月26日〉 |
改名 | 七之助、式部 |
別名 | 通称:甚兵衛 号:蘇門 字名:君裕 隠居名:三郎左衛門 |
戒名 | 徳光院殿前勢州刺史照山宗遵大居士 |
墓所 | 長野県木曽町の興禅寺 |
官位 | 従五位下伊勢守 |
主君 | 徳川宗睦 |
藩 | 尾張藩士 |
氏族 | 大江氏流山村氏 |
父母 | 父:山村良啓、母:なを |
兄弟 | 良恭、良由(蘇門)、女(きく)、女(とせ)、良諶、良音、女(やお)、意明 |
妻 | 小笠原靱負長暉の娘(かや) |
子 | 良喬(養子)、女(なみ、良喬の妻)[1]、亀次郎、女(しやう)、女(いを)、女(きく)、勇之助 |
生涯
編集山村甚兵衛家は関ヶ原の戦いでの功により、当初は江戸幕府の旗本となったが、元和元年(1615年)以降は尾張藩の附属とされた。
山村家は尾張藩の木曽代官の仕事と共に、幕府から預かった福島関所を守る特別な職務を与えられ、尾張藩の重臣(大寄合)であると同時に幕臣(江戸城柳間詰)としての身分も合わせもつ特別な家柄であった。蘇門(良由)の頃の山村甚兵衛家の知行所は、美濃国の恵那郡・土岐郡・可児郡の内で中山道沿いの村々の5,700石であった。
寛保2年(1742年)3月6日、山村良啓の次男として生まれた。 幼い頃から読書を好み、10歳の頃には昼夜を問わず読書にふけったので、侍医が心配して父・良啓に告げてやめさせようとしたが、返ってこれを悲しみ、食事をとろうとしなかったので、侍医も驚いて好きなようにさせたという。
宝暦の初年、良由(蘇門)は、山村甚兵衛家の侍医で本草学者であった三村道益[3]に学問の手ほどきを受けた。[4]、
宝暦11年(1761年)、将軍代替わりの挨拶のため、父に従って江戸へ参府し、将軍・徳川家治に御目見えした。 同年の江戸滞在中に、大内熊耳に師事した[5]。 在府の諸名家と交流を約して木曽へ帰り、その後は疑問の点があれば書き留めておき、書状をもって教えを受けた。
明和3年(1766年)、京都の江村北海に入門した。前年には、蘇門の片腕となって仕えることとなる石作貞一郎(石作駒石・いしづくりくせき)が伊勢の学者の南宮大湫[6]に教えを受け、大湫と同門であった細井平洲にも教えを受けた。
天明元年(1781年)10月、家督を嗣いで山村甚兵衛を襲名し、木曾代官の九代となった[7]。 当時、財政が困窮していたので、節約を励行し、名古屋屋敷の留守居役であった石作貞一郎(駒石)を勘定役に抜擢して整理を託した。 凶作が続いたこの時期、美濃や松本から木曽谷へ米を入れるとともに、産業の振興を図り、財政を改善した[8]。 山村家は深刻な財政難に陥っていたが、率先して質素倹約に努め、幕府に掛け合って木曽領内に運び込まれる米を確保し、石作貞一郎(駒石)ら有能な家臣を登用して町人の協力を取付け、財政再建に大きな成果をあげた。
天明7年(1787年)は大規模な飢饉となり、全国では餓死者が多数出ていた。蘇門は自ら領内の各村を巡視して金穀を給し、医薬を給したため、木曽では多くの人々が餓死を免れた。この業績は中山道を通行した幕府老中の松平定信が知って驚き、良由(蘇門)を幕府の老中に抜擢しようとしたところ、そのことを、尾張藩主の徳川宗睦が知るところとなり、 同年10月、良由と良喬の父子は尾張藩から召し出され、12月に名古屋城へ出仕し、思召を以て、家督を甥の良喬に譲り、良由(蘇門)を尾張藩の年寄役(家老職)に抜擢され、知行3,000石を下附された。
寛政2年(1790年)、江戸定府詰中には、85人扶持を給された。
寛政10年(1798年)に病により隠居を願い出たため、尾張藩主の徳川宗睦はこれを惜しみ、家老の成瀬正典と共に止めようとしたが、良由は「人の止むる是我退くべきの秋也」と伝えた。
尾張藩の年寄役を退いた後は、隠居扶持50人を給せられ、江戸の芝にあった山村家の屋敷に居住していたが、寛政12年(1800年)、芝の屋敷が火事で焼失したため、隅田川沿いの大川橋南控屋敷に移った。
隠居した後は細井平洲と交わり、中山後凋軒から長沼流の兵法を学んだ。古賀精里、神保蘭室、樺島石梁といった全国の学者と交流を深める一方、木曽義仲を顕彰する「木曽宣公旧里碑」を建立するなど文化事業に力を入れた。著作に『清音楼詩鈔』(二巻)、『清音楼集』(五巻)、『忘形集』などがある。
多能で、弓・馬・刀・槍から、笙・箏・書・画の技に及んで、各々は絶妙に及んでいた。
晩年は古賀精里、秦滄浪、立原翠軒、樺島石梁、菅茶山との文学の交流や、詩作をして過ごした。
文政5年1822年秋、侍臣に対して「速に装束を用意せよ、冬春の交 恐らくは病まん、墳墓の地で終りたい」と語った。 侍臣は、この言葉を信じられず、「君常に木曾の寒気を怖れていた。今霜威強からんとしている。来春を待って帰らるるがよかろうか」と提案した。 しかし良由(蘇門)は、その言葉を聞きいれずに木曾へ帰った。
文政6年1月16日〈1823年2月26日〉、木曽福島の山村邸において82歳で没し、興禅寺に葬られた。戒名は「徳光院殿前勢州刺史照山宗遵大居士」。
脚注
編集- ^ 良喬の妻
- ^ 高橋 1996, p. 70.
- ^ 江戸時代中期の医師,本草家。元禄13年(1700年)生まれ。信濃木曾の人。山脇東洋に医をまなび,木曾代官山村家に仕えた。山中の薬草をしらべて村民に採取をすすめ,薬の製法を指導。これより木曾の薬草の名がひろまった。宝暦11年(1761年)9月21日死去。62歳。名は璞。字は季崑。号は石床。著作に「木曾薬譜」など。
- ^ 井口 1999, pp. 28–29.
- ^ 井口 1999, pp. 34–35; 今田 1988, p. 27; 高橋 1996, p. 68.
- ^ 享保13.3.1(1728.4.9)~安永7.3.3(1778.3.31)江戸時代中期の漢学者。美濃(岐阜県)今尾の人。名は岳,字は喬卿,通称は弥六。大湫などと号す。本姓井上氏。家は代々尾張藩家老の竹腰氏に仕える。幼くして父母を失い,病弱であったことから学問を志し,中西淡淵に師事。仕官を嫌い,桑名に移り住んで,姓を南宮と改めた。講説を業とし,貧困生活が続いたが,その間少しも動じることがなかった。その後,安濃津(三重県津市)に移り,門人も増えて,大師と称せられた。42歳のとき,同門細井平洲 の勧めで,江戸に出て開塾。各藩から賓師として召され,声望はますます上がり,一家をなした。
- ^ 井口 1999, p. 53; 高橋 1996, p. 68.
- ^ 井口 1999, pp. 54–55.
参考文献
編集- 今田哲夫『山村蘇門―近世地方文人の生涯―』郷土出版社、1988年。
- 高橋明彦「山村蘇門・追考 : 略年譜、交友など」『金沢美術工芸大学紀要』第40号、金沢美術工芸大学、1996年、70-58頁。
- 井口利夫 著、木曽福島町教育委員会 編『山村蘇門』木曽福島町教育委員会、1999年 。
- 牛丸景太『蘇門公をご存じですか? Do you know SOMON?』木曽町商工会木福島支部、2023年。
- 萱場真仁「良由公日記」にみる木曽代官山村良由の治世・人物像」『金鯱叢書』51輯、徳川林政史研究所、2004、55-70頁。
- 『木曽福島町史 第一巻 (歴史編)』 第五章 江戸時代 第一節 山村氏 第九代 良由 p230~p232 木曽福島町教育委員会 1982年
- 『西筑摩郡誌』 五四、山村伊勢守良由(蘇門公) p620~p622 長野県西筑摩郡役所 1915年
- 『山口村誌 上巻』 第四章 近世 第二節 尾張藩の成立と木曽 二 木曽代官 山村氏 木曽代官山村氏歴代 九代 山村良由 七之助 式部 三郎右衛門 甚兵衛 伊勢守 p428~p429 山口村誌編纂委員会 平成7年
外部リンク
編集- 山村蘇門 木曽町公式サイト
- 『山村蘇門』 - コトバンク