山本菅助 (二代)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将
山本菅助(やまもと かんすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣。足軽大将。二代山本菅助。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文22年5月11日(1553年6月21日)[1] |
死没 | 天正3年5月21日(1575年6月29日)[1] |
改名 | 兵蔵(幼名)[2]?→幸房[2]? |
別名 | 信供[3]、勘蔵[3] |
主君 | 武田信玄→勝頼 |
氏族 | 三河山本氏 |
父母 | 父:山本菅助[注釈 1] |
兄弟 | 山本十左衛門尉室、山本勘蔵(信供)、山本助次郎、下村安笑 |
略歴
編集初代山本菅助の子として誕生。「沼津山本家所蔵道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」『沼津山本家文書』によれば幼名は「兵蔵」、諱は「幸房」とされるが、確実な文書からは確認されない[1]。また、幼名の「兵蔵」も戦国期の慣習からして不自然である点が指摘される[1]。『甲斐国志』では「山本某」として立項し、名を「勘蔵信供」としている[1]。姉婿に十左衛門尉(幸俊)がいる[1]。
『甲陽軍鑑』に拠れば初代菅助は天文12年(1543年)に武田家に仕官し、文書上からも足軽大将としての活動が確認される[4]。初代菅助には男子がなく、天文20年(1551年)に饗庭氏から十左衛門尉を娘婿として迎えていたが[2]、天文22年(1553年)5月11日に二代菅助が出生する[2][5]。
父の初代菅助は永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで戦死したといわれ、幼い「兵蔵」は十左衛門尉に後見され育つ[6]。
永禄11年(1568年)に元服し「菅助」を名乗る[1]。同年6月7日には小者合計6人の軍役を課せられている[4]。
「御証文之覚」によれば、二代菅助は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて討死する[1]。山本家は十左衛門尉が継ぎ[1]、その後紆余曲折を経て十左衛門尉の子孫が江戸時代も存続する。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『甲陽軍鑑』では「勘助」、道鬼。