山本健児

日本の陸軍軍人 (1895-1975)

山本 健児(やまもと けんじ、1895年明治28年)9月20日[1][2] - 1975年昭和50年)4月14日[1][3][注釈 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

山本 健児
生誕 1895年9月20日
日本の旗 日本 高知県高知市西町
死没 (1975-04-14) 1975年4月14日(79歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1916 - 1945
最終階級 陸軍中将
除隊後 朝日生命保険顧問、高知県軍人恩給連盟初代会長
墓所 高知市小高坂丹中山
テンプレートを表示

経歴

編集

高知県高知市西町出身[3]。山本雄秀・駒の二男として生れる[1][3]。幼少期は神童と呼ばれ、友人の遊びを断り蔵に籠り読書三昧が日課であったという[3]県立中学海南学校大阪陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第62連隊付となる[1][4]1920年(大正9年)4月、歩兵中尉に進み、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した[1][3]

1924年(大正13年)2月から10月まで操縦学生として訓練を行った[1]。同年10月、飛行第5大隊付となる[1]。1925年(大正14年)5月、兵科航空兵科に転じ航空兵中尉に任じられ飛行第5連隊付となる[1]。同中隊長、陸軍航空本部員、下志津陸軍飛行学校教官などを歴任し、1931年(昭和6年)8月、航空兵少佐に昇進した[1]

1933年(昭和8年)8月、陸軍省軍務局課員に就任し、1935年(昭和10年)8月、航空兵中佐に進級[1]。同年12月、飛行第12連隊付となり、航空本部員を経て、1938年(昭和13年)3月、航空兵大佐に昇進し航空本部第3課長に就任した[1][4]

1938年12月、陸軍航空総監部第2課長兼航空本部第4課長に発令され、次いで飛行第12戦隊長に着任[1][4]ノモンハン事件に出動した[2]1941年(昭和16年)7月、第7飛行団長に就任[1][4]。同年8月、陸軍少将に進級[1][4]太平洋戦争を迎え、南方の諸作戦に参加した[2]

1942年(昭和17年)12月、浜松陸軍飛行学校幹事となり、同校長を経て、1944年(昭和19年)6月、第8飛行師団長心得に就任し台湾防空の任を担った[1][2][4]。同年10月、陸軍中将に進み、第8飛行師団長に親補された[1][2][4]。台湾で終戦を迎え[2]1946年(昭和21年)に復員[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

戦後は、朝日生命保険顧問、高知県軍人恩給連盟初代会長などを歴任した[3]。墓所は高知市小高坂丹中山[3]

栄典

編集

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』773頁には9月14日没。

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、168頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』773頁。
  3. ^ a b c d e f g h 高知新聞社 1999, 883頁.
  4. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』388-389頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。

参考文献

編集
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854