小野寺義寛(おのでら よしひろ)は、平安時代後期の武将。下野小野寺氏の祖。『住林寺本尊胎内銘』には、「大法師義寛」とあり、入道名と思われる。諱は道成、若しくは道房。

 
小野寺義寛
墓所 住林寺(栃木市岩船町)
氏族 小野寺氏
父母 首藤義通
兄弟 首藤経俊,首藤俊通
乙姫(足利家綱の孫)
小野寺道綱
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元々は山内氏であったが、父義通の代の時に、相模国鎌倉郡山内に土着して山内首藤氏を称するようになった。禅師瀧口入道と称し、京都で瀧口の武士を務めとしていたが、六条判官源為義に従軍し、坂東の地を転戦。その功績により、為義公の「義」の一字と、下野国下都賀郡小野寺郷(栃木県下都賀郡岩船町)を賜り、小野寺氏を苗字とした。保元元年、義寛三十三歳の時、当地に小野寺城を築き、建仁三年四月八日死去。享年八十才。法名 夜叉院七宝義寛大居士。住林寺にある五重塔墓碑が義寛のものと伝わる。妻は藤姓足利家綱の孫乙姫。参考文書『住林寺本尊胎内銘』

佐野市に伝わる民話では、小野寺民部として登場し、同じく京都で瀧口の武士を務めていた足利家綱を讒言したとされている。足利家綱は流罪となったが後に功績を称えられて許され、家綱は義寛のことを許したとされる。