小篠敏
小篠 敏(おざさ みぬ)は江戸時代の儒学者、国学者。遠江国浜松出身。山脇東洋に漢学、谷川士清に垂加神道、新井白蛾に易学、松崎観海に古文辞学、本居宣長に国学を学び、石見浜田藩に医学・儒学をもって仕えた。長男二宮彦可は整骨医。
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保12年(1727年) |
死没 | 享和元年10月8日(1801年11月13日) |
別名 | 敏(名)、十介・道沖・大記(通称)、轡竜・徳卿(字)、東海・筱舎(号) |
墓所 | 浜田市真光町観音寺 |
主君 | 松平康福、康定、康任 |
藩 | 石見浜田藩 |
氏族 | 田淵氏、小篠氏 |
父母 | 田淵玄統、小篠秀哲 |
妻 | 柳瀬方塾孫 |
子 | 二宮彦可、犬飼知足、小野寺成美、小篠紀 |
名前
編集姓の小篠は「おざさ」と読むが、友人蓬萊尚賢には「しの」とも呼ばれている[1]。下総国匝瑳党小匝瑳氏に由来し、浜田市金城町に小笹(おざさ)という字がある[2]。
通称は道沖といい、寛政2年(1790年)任官に当たって大記と改称した[3]。名は敏といったが、幕府の忌諱に触れるため、字の轡竜で代用していたところ、本居宣長により「敏」の呉音ミヌから「御野」の字を与えられた[4]。出身地に因んで東海とも号した[4]。
生涯
編集享保12年(1727年)遠江国浜松大工町に田淵玄可の次男として生まれた[5]。故郷で国学・古文辞学等の薫陶を受け、京都で山脇東洋に漢学、伏見で稲田大進に瘍医学を学んだ[6]。若くして谷川士清に垂加神道を学び[7]、20代には京都で新井白蛾に易学を学んだ[8]。白須賀神明宮内藤兵庫とも交流して、臼井帯刀流神道を学んだ[9]。
宝暦2年(1752年)石見浜田藩医小篠秀哲の養子となり、明和2年(1765年)5月25日跡を継いだ[10]。藩主松平康福に儒学の才を認められてしばしば参勤交代に随行し[11]、江戸で松崎観海に古文辞学を学んだ[12]。康福の古河藩、岡崎藩転封に従い、明和6年(1769年)11月18日浜田に帰着した[11]。
安永4年(1775年)松崎観海と死別すると、代わって本居宣長と交流を深め、国学に傾倒した[13]。安永8年(1779年)同僚と国学研究会を立ち上げ[14]、自宅奥の間に祭壇を設けて舎人親王・太安万侶を祀った[15]。安永9年(1780年)『源氏物語』を好んだ松平康定の命で松坂に派遣され、本居宣長に入門して1年間講義を受けた[16]。帰国後自宅に藩校を設立し[17]、『学記』に因み長善館と名付け[12]、国学・漢学のほか、弓術・剣術も指導した[17]。
天明4年(1784年)春所用のため肥前国長崎を訪れ、夏松坂に滞在した[18]。同年鈴木梁満が宣長に入門すると、以前から悪名高い人物だと訴え、天明6年(1786年)10月破門させた[19]。天明6年(1786年)春長崎を再訪し、太宰府天満宮・筥崎八幡宮・宇美八幡宮を参詣した後、夏松坂に滞在した[18]。天明8年(1788年)秋山根信満と長崎に行き、オランダ人を相手に「オヲ所属弁」の検証を行った[20]。
寛政2年(1790年)左眼を失明した[3]。寛政3年(1791年)儒臣に取り立てられ、100石を給された[21]。寛政5年(1793年)8月14日養子行蔵に家督を譲り、隠宅を無楽軒と号した[22]。寛政6年(1794年)国学普及のため出雲に行って講義を行った[23]。寛政7年(1795年)4月松坂を訪れて宣長の伊勢神宮参詣に同校し、8月藩主松平康定を迎えて伊勢参詣を手配し、宣長に引き合わせた[24]。寛政8年(1796年)3月江戸へ向かい、9月帰国した[25]。
享和元年(1801年)10月8日病没し、10日浜田観音寺に葬られた[21]。昭和51年(1976年)3月25日墓は浜田市文化財に指定された[26]。
著書
編集『玉勝間』への貢献
編集宣長著『玉勝間』の数条は小篠敏の報告に基づく。
親族
編集脚注
編集- ^ 中村 1943, p. 60.
- ^ 大島幾太『石見家系録』田中三市、1918年3月、303頁。NDLJP:912415/166
- ^ a b 中村 1944, p. 57.
- ^ a b 中村 1944, p. 59.
- ^ 中村 1943, pp. 55–56.
- ^ 加藤 1966, p. 290.
- ^ 中村 1944, p. 66.
- ^ a b 中村 1944, pp. 64–65.
- ^ 中村 1944, pp. 56–57.
- ^ 加藤 1966, pp. 290–291.
- ^ a b 加藤 1966, p. 291.
- ^ a b 中村 1943, p. 57.
- ^ 中村 1943, pp. 57–58.
- ^ 中村 1943, p. 58.
- ^ 加藤 1966, pp. 300–301.
- ^ 加藤 1966, pp. 291–293.
- ^ a b c 加藤 1966, p. 301.
- ^ a b 中村 1943, p. 59.
- ^ 中村 1943, pp. 60–61.
- ^ a b 加藤 1966, p. 296.
- ^ a b 森 1943, p. 249.
- ^ 中村 1944, p. 58.
- ^ 中村 1944, p. 60.
- ^ 中村 1944, pp. 61–62.
- ^ 中村 1944, pp. 62–63.
- ^ “東海篠先生之墓”. 浜田市. 2018年1月7日閲覧。
- ^ 周易蠡測 - Google ブックス
- ^ 加藤 1966, p. 305.
- ^ a b c d e f g h i 中村 1944, p. 65.
- ^ 加藤 1966, p. 303.
- ^ 森 1943, p. 244.
- ^ a b 加藤 1966, p. 298.
- ^ 膽吹覚「『玉勝間』巻九「石見国なるしづの岩屋」について」『國文學論叢』第59巻、龍谷大學國文學會、2014年2月、1-14頁、CRID 1050845762717169792、hdl:10098/8227、ISSN 02887770。
- ^ a b 加藤 1966, p. 299.
- ^ a b 中村 1943, p. 56.
- ^ a b 森 1943, p. 246.
- ^ a b 加藤 1966.
- ^ a b c d 森 1943, p. 248.
- ^ 大久保正「本居宣長書簡二通 ―翻刻と考証―」『国文学研究資料館紀要』第01巻、国文学研究資料館、1975年3月、236頁、CRID 1390853649821264768、doi:10.24619/00000328。
- ^ 中村 1944, pp. 59–60.
参考文献
編集- 森繁夫「小篠敏」『人物百談』三宅書店、1943年7月 。
- 中村幸彦「小篠敏伝攷上」『国語国文』第13巻第12号、京都大学文学部国語学国文学研究室、1943年12月、doi:10.11501/6058795。
- 中村幸彦「小篠敏伝攷下」『国語国文』第14巻第3号、京都大学文学部国語学国文学研究室、1944年3月、doi:10.11501/6058798。
- 加藤隆久「本居宣長と小篠御野」『甲南大学文学会論集』第32号、甲南大学文学会、1966年12月、289-305頁、CRID 1520853833727896960、doi:10.11501/1792804、ISSN 04542886、全国書誌番号:00008013。