小澤さとる

日本の漫画家

小澤 さとる(おざわ さとる、1936年2月3日 - )は、漫画家埼玉県川口市出身。北海道函館市在住。本名:小沢暁。別名:小沢さとる北沢力。代表作に潜水艦漫画『サブマリン707』、アニメ化された『青の6号』など。名義に「小澤さとる」と「小沢さとる」があるが意図して少年向けには「小沢さとる」を、青年向けには「小澤さとる」を使用している。海洋SF漫画の先駆者で、多くの漫画家・アニメーターに影響を与えている[1]。ヒット商品となった「ロボダッチ」や「チョロQ」の開発にも携わり、生みの親として知られる[2][3]

経歴

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1950年代半ば、高校在学中にアルバイトを探していた際、知り合いの編集者に「君、器用だから やってみないか」と手塚治虫のアシスタント業務を紹介され、「製図ができるならベタも塗れるだろう」とアシスタントを務める。アルバイト先はトキワ荘ではなく、手塚が当時仕事場にしていた旅館であった。旅館の大部屋では石ノ森章太郎松本零士桑田次郎横山光輝が作業しており、小澤は小部屋で一人、色塗りなどした。一人で作業をしていたため、編集者は何も知らず、「手塚先生の秘密兵器か」などと勘違いされたという[1]

立教大学在学中の1957年『ルミ死なないで』で漫画家デビュー。

漫画業には興味がないところを編集者陣から必死の説得により、川口工業高校在学中から漫画を発表。「夏休みと正月休みだけは外せない」と交渉し、一時は手塚治虫の数倍の原稿料を得る。少女漫画、忍者ものも手がけていたほか、艦船ものについては漫画界の先駆者といえる存在となった。昭和38年に発表された『サブマリン707』シリーズで一世を風靡した。1970年代に人気を集めた今井科学プラモデルロボダッチのキャラクターデザインと原作も手がけていた。

本業はエンジニアであり、漫画は副業だった。新日本製鐵日野自動車などの企業を渡り歩いて、主にシステムメンテナンスを担当していた。

その後十二指腸潰瘍を発症し、転業、転地療養を医師から申し渡された事から、1970年代以降は漫画家としての仕事量を減らしている。

1983年に交通事故に遭い、エンジニアとしての本業も辞める事となる。直後はペンすら持てないほどの半身麻痺状態であり、執筆活動を断念。

しかしその後、驚異的に回復し、1992年に『サブマリン707F(FUSION)』で執筆活動に復帰。

1988年から北海道紋別郡遠軽町に居を構えており、2007年12月に函館市に転居。

2003年日経キャラクターズにて『新サブマリン707 2万3千年の航海』を連載。

作品リスト

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  • 「ルミ死なないで」(「少女」誌、1957年) ※ 雑誌デビュー作
  • 「海底戦隊」(「少年ブック」連載)
  • 少年台風
  • 少年タイフーン
  • 冒険日本号
  • エムエム三太
  • サブマリン707(週刊少年サンデー 1963 - 1965年)
    • サブマリン707F
    • 「サブマリン707・ゾーン」
  • 青の6号
    • 青の6号 AO6
  • サイビート
  • 宇宙人ロック
  • Dマック
  • 飛行潜サブマック
  • アストロD
  • スキップレッド
  • ハントムX
  • ジャイアントロボ- 横山光輝と共作(12話まで) 。
  • 黄色い零戦―イエロー・ファイター(1988年)
  • タイドライン・ブルー(TVアニメ)- 共同原作。
  • 烈剣五郎
  • 烈火烈風
  • 二つ伊賀
  • 丹下左膳
  • 「風は七いろ」
  • 「サンダーピック」
  • スペース西遊記ロボット59

商品デザイン

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  • ロボダッチ(プラモデル) - キャラクターデザインと原作を担当、今井科学から発売
  • ロボットそん59(プラモデル) - キャラクターデザインと原作を担当、タカラから発売、「スペース西遊記ロボット59」とは別に、リッキー谷内の作画による漫画版もあり

その他

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  • パンローリング社マンガショップより、2010年12月「エムエム三太」全2巻、2011年2月「丹下左膳」、2012年6月「青の6号」全2巻、2013年1月「少年台風」全3巻、として復刻された。

アシスタント

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脚注

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外部リンク

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