小浜宿
小浜宿(こはまじゅく)は、有馬街道の宿場の一つ。江戸時代の摂津国川辺郡小浜町、現在の兵庫県宝塚市小浜にあった。京伏見街道、西宮街道も通り、交通の要衝であった。
沿革
編集小浜は伊丹台地の西端に位置し、平安時代に周辺が陸化するまで瀬戸内海が深く入り込む浜であった。9世紀に国府が置かれ、総社・売布神社が創設される。
15世紀末、覚如の末裔である一向宗(浄土真宗)の善秀が小浜荘を開き[1]毫摂寺を建立。その際、周囲三方を大堀川が迂回する地形を利用して小浜を城塞化、寺内町として一向宗勢力の拠点となり、戦国大名や織田信長の一向一揆弾圧に備えた。信長が、荒木村重を伊丹城に攻めた(有岡城の戦い)際には、信長方に付いて難を逃れている[2]。
その後、有馬などの街道が通る交通の要衝としての地位を確立する。豊臣秀吉や秀次も有馬湯治の際に立ち寄ったが、秀次が毫摂寺の娘を側室にしたことから、秀次失脚の折、焼き打ちにあってしまう。
復興した小浜は、その後江戸幕府からも重視され、小浜宿が成立して発展。脇本陣や旅篭、木賃宿、商家、馬借が林立した。また、名水「玉の井」を使用した酒造「小浜流」が発達[3]。摂津国鴻池村にて酒造業を起こしていた山中幸元(鴻池新六)の長男山中清直が、慶長19年(1614年)に分家し、小浜宿の「扇屋」を買収し酒造業を営んだ[4]。灘五郷に先立つ大酒造業地となり、小浜の酒は江戸詰めの大名諸侯はじめ全国に知れ渡ったが、18世紀から次第に灘五郷へ譲渡されてほぼ消滅する。1723年には大工の集団「小浜組」が結成、大工の町としても知られるようになる。
寺内町
編集小浜は、南西北の三方を迂回する大堀川に加えて東側に溜池を掘り、周囲に土塁を廻らして防御性を高めた城塞寺内町であった。街道ごとの三方には門を構え、東門は京伏見街道、北門は有馬街道、南門は西宮街道に通じていた。南北750m・東西400mの総構えで、小浜城とも呼ばれる。
旧街道
編集旧跡・みどころ
編集脚注・参考文献
編集- ^ 『摂陽群談』1701年、岡田徯志編纂
- ^ 『摂陽史』
- ^ 井原西鶴著『日本永代蔵』に酒造流儀「小浜流」が紹介されている。
- ^ 小浜町並み保存研究会編『宝塚小濱宿と街道‐川面、米谷、安倉、』1986年‐p.88
- ^ 小浜町並み保存研究会編 昭和61年11月15日 宝塚小濱宿と街道 p.81−82
- 『広報たからづか』宝塚市
関連項目
編集- 兵庫県道142号米谷昆陽尼崎線(県道の一部が小浜宿の中を通過している)