小泉親彦
小泉 親彦(こいずみ ちかひこ、1884年(明治17年)9月9日 - 1945年(昭和20年)9月13日)は、日本の政治家、陸軍軍人(陸軍軍医)。陸軍軍医中将従四位勲一等。兄の小泉親治は海軍少将。
人物情報 | |
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生誕 |
1884年9月9日 日本 福井県 |
死没 |
1945年9月13日(61歳没) 連合国軍占領下の日本 東京都淀橋区西落合1-165の自邸 |
出身校 | 東京帝国大学 |
両親 | 小泉親正、やす[1] |
学問 | |
研究分野 | 衛生学 |
学位 | 医学博士 |
主な業績 | 結核予防、厚生省の設置を推進 |
主な受賞歴 | 勲一等旭日大綬章 |
略歴
編集旧鯖江藩士小泉親正の3男として福井県に生まれる[1]。東京開成中学、旧制第六高等学校(岡山県)を経て、1908年(明治41年)12月に東京帝国大学医科大学を卒業した[1]。1921年(大正10年)に医学博士の学位を受ける。
陸軍軍医学校教官、同軍医監を経て[1]、1932年(昭和7年)に近衛師団軍医部長に就任する。1933年(昭和8年)、陸軍軍医学校校長を務めたのち1934年(昭和9年)、陸軍軍医総監(陸軍中将相当官)となり陸軍省医務局長に就任した[1]。1937年(昭和12年)、官名が陸軍軍医総監から陸軍軍医中将に改められた。階級としては、軍医中将は軍医として最高位である。1940年(昭和15年)、勲一等旭日大綬章受章。1941年(昭和16年)7月、第3次近衛内閣で厚生大臣に就任、次の東條英機内閣でも留任した[1]。1944年(昭和19年)7月21日、貴族院勅選議員に就任[2]。
1945年(昭和20年)9月、戦争犯罪容疑者として連合国軍最高司令官総司令部から出頭を命じられるが、連合国軍の取り調べを拒否し、古式にならって白装束で割腹自殺を遂げた[1][3]。享年62。墓所は青山霊園。
人物
編集陸軍省医務局長在任中、大日本帝国陸軍で初めてBCG接種を実施し、結核予防に効果を挙げるなど、先駆的な人物として知られた。また、厚生省の設置にも尽力し[1]、厚生年金保険制度を創設するとともに国民皆保険を唱えた[4]。
栄典
編集- 位階
- 勲章
逸話
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i “先人を偲ぶ -小泉 親彦-”. 鯖江市. 2015年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月13日閲覧。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、52頁。
- ^ 寺師良樹 (2014年1月23日). “陸軍軍医中将 寺師義信(てらし よしのぶ)の生涯” (PDF). 寺師医院. 2015年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月17日閲覧。
- ^ a b 安藤俊裕 (2012年1月8日). “終戦時の内務次官、公職追放に 「群雀中の一鶴」灘尾弘吉(1)政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕”. 日本経済新聞. オリジナルの2013年4月27日時点におけるアーカイブ。 2015年10月14日閲覧。
- ^ 『官報』第2164号「叙任及辞令」1934年3月22日。
- ^ 『官報』第4409号「叙任及辞令」1941年9月16日。
関連項目
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