小河源一
小河 源一(おがわ げんいち、安政6年6月19日(1859年7月18日) - 大正5年(1916年)12月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会)、弁護士。
経歴
編集豊前国宇佐郡長洲村(現在の大分県宇佐市)出身。法学を学び、1886年(明治19年)に代言人試験に合格し、山口県で開業した。1893年(明治26年)、弁護士法が施行され、代言人が弁護士と改められるとともに、山口弁護士会会長に選出された。1895年(明治28年)には李鴻章狙撃犯の小山豊太郎の弁護を担当した[1]。
それより先、1887年(明治20年)に山口県内の革新派で防長同士会を組織し、幹事となった[2]。1895年には山口県自由党支部代議員に選出され、1898年(明治31年)には憲政党山口支部幹事、1901年(明治34年)には立憲政友会山口県支部幹事に就任した[2]。
1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、連続6回当選を果たした。その間、1903年(明治36年)に奉答文事件への対応を不満として政友会を離党している[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 鷹居匡『第二十八議会衆議院議員写真列伝』経済時報社、1912年。
- 『第二十八回衆議院重要問題名士演説集』帝国議会要史編纂所、1912年。